してしまつた。下では対局が佳境に入つて、肝腎の急処で二階にゐる筈の参謀にいくら合図をしても一向に通して来ない。不思議に思つて二階を見ると、本因坊の足が格子の間から、ぶらんとぶら垂つてゐた。
 これとよく似た話が、私にもあるよ。通し碁、通し将棋、なぞは昔はざらだつたからネ。
 秩父の大宮に玉金と言ふ親分がゐた。昔は将棋遊歴をしてあるくのに、よくその土地の顔役の許を手頼つていつたもんだ。あゝ言ふ人たちは手頼つていくとよく世話をして呉れるからネ。私は清水の次郎長親分の許を尋ねていつたことがあるよ。子分達と将棋を指してぶらぶらしてゐた。
 玉金親分は太ツ腹の面白い人達だつた。将棋が好きなんだが、下手の横好きと言ふ方でネ、土地の高利貸しに宇野さんといふ人がゐた。この宇野さんの将棋はがつちりしてゐた、どうしても玉金親分は勝てないんだ。
 ある時私が訪ねていくと、どうしても宇野さんをやツけてやるんだから、通し将棋をして呉れと言ふんだ。こつちはまだ若いし、面白半分に、
「ようがす、一ツやツけませう」
 と言ふ訳になり、しめし合せて土地の料理屋に乗り込んだ。
 その仕組かえ、玉金親分と宇野さんが対局してゐると、親分の妻が宇野さんの背後にぴたりと坐つて、つまり親分と向ひ合ひさ。
 私は親分の横の坐敷の障子に穴をあけてそこから一生懸命覗いてゐる。そして将棋が難しくなつて親分が考え込むと、ツケギツパ、ほら昔マツチのかはりに使つたあれさ、あれに五六歩なり五八飛なりと書いて女中に渡すんだ。
 すると女中がまた妻君に手渡すと、妻君は宇野さんの背後に大丸髷の脇にそのツケギをひよいと出すんだ。この方法はようやつたもんで、俗にツケギと私達仲間では言つてゐた。普通なら気が付くんだらうが、対局中は誰れでも熱くなつてゐるから案外気が付かないんだネ。
 もつとも女中が一人では判つてしまふので二三人そばに置きかはり番に坐を立たせたもんだが、おかしかつたのはその時私が風邪をひいてゐた。で、咳が出て仕方がないんだが、私が咳をすると相手にあやしまれてしまう。
 黒飴をもらつてそれを舐めてゐたが、そんな時に限つて余計に咳が出るもんで、我慢出来ずに私が咳をすると、妻君や女中達が、相手に気付れない様に、後からゴホンゴホン、やるんだ。すると宇野さんは駒を握り乍ら、
「大分風邪が流行つてゐるな」
 とすましてゐる。おかしくても
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