下して氷の硬度が増すからである。これは若者でなくては到底堪へられぬ労作である。若者は、宵の口から、藁製の雪沓《ゆきぐつ》を穿《は》き、その下にかつちき[#「かつちき」に傍点](※[#「木+累」、第3水準1−86−7]《かんじき》の義)を著けて湖上へ出かける。綿入を何枚も重ねた上に厚い袢纏《はんてん》を纏ふのであるから、体は所謂着ぶくれになる。横も竪も同じに見えるといふ姿である。斯様な扮装をした若者が氷の上に一列に並んで、氷を鋸引きに引きはじめるのである。氷を引く手元は、初め暗くて後に明るい。氷に眼が馴れるのである。三尺四方程の大さに引き離される氷の各片が、切り離されると共に水中に陥る。それが氷鋏と称する大きな鋏で挟み上げられる。挟みあげられたあとの水には星が映つて揺《ゆす》れてゐる。大凡一望平坦の氷原にあつて、空は手の届くやうな低さを感ずる。星が降る如く光り満ちてゐるのである。星の光は、水にあつて水の明りとなり、氷にあつて氷の明りとなり、その明りに全く馴れるに及んで、相隣する人の顔まで明瞭に見えるやうになるのである。夜が漸く更けて、寒さが益々加はると、氷原の所々に亀裂の音が起る。寒さのために氷が収縮(膨張?)するのである。亀裂の音は、所謂氷を裂くの音であつて、氷原を越えて四周の陸地山地まで響きわたる。その響きの中に立つて鋸を引いてゐる若者の背中には汗が流れてゐるのである。暫く立つて休息してゐると、その汗が背に凍りつくを覚える。さういふ時は、鋸の手を休めないやうにするのが、唯一防寒の手段になるのである。それ故、若者は只せつせと切る。腕が疲れると唄も出ない。只時々睡気ざましに大きな声を張り上げるものもあるが、それも永く続かない。あまり疲れて寒くなれば、氷の上で例の焚火をして一時の暖を取ることもある。斯様にして夜が白んで来ると、氷の上に積まれた氷板が山の如く累《かさな》つてゐるのである。夜明けからそれを運んで湖岸の田圃に積み上げる。田圃には、連夜切りあげられた氷板が、長い距離に亘つて正しく積み並べられて、恰《あたか》も氷の塁壁を築いた如き観を呈する。積まれた氷には多く筵類《むしろるい》を引被せておくのであるが、覆《おお》ひの筵がなくとも、白昼の日光で氷の溶けるといふやうなことはないのである。海抜二千五百尺の地の如何に寒いかといふことは、是で想像し得るであらう。若者は氷を積
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