僕にはその女が蘇生したように思われ、何ともいえぬ荘厳な感に打たれて、僕はいつの間にか実験ということを忘れて、その微妙な運動を見つめた。そうして、その心臓の持主について考えた。失恋! 何という悲しい運命であろう。僕はその時、人ごとならず思ったよ。僕も同じく失恋の苦しみを味う人間ではないか。嘗《かつ》てこの持主の生きて居た時分この心臓はいかにはげしく、又、いかに悲しく搏ったことであろう。その古い、苦しい記憶も、今はロック氏液によって洗い去られたと見え、何のこだわりもなく収縮、拡張の二運動を繰返して居る。恐らく彼女の失恋以後、一日として、この心臓は平静な搏ち方をしなかったであろう。搏て! 搏て! ロック氏液はいくらでもあるから、搏って、搏って搏ちつくすがよい。
 ふと、気がついて見ると、心臓は著しくその力を弱めた。無理もない。搏ちかけてから凡《およ》そ一時間を経て居たのだ。思わぬ空想に時を費して、情緒研究を忘れて居た僕は、科学者としての冷静を失ったことを恥じつゝ、折角貴重な材料を得ながら、これを無駄にするのは勿体ないと考えた。そうして、咄嗟《とっさ》の間に思いついたのが、失恋の情緒の研究だ。失恋をした人の心臓へ、失恋をした僕の血液を通じて曲線をとったならば、それこそ理想的な失恋曲線が得られるのではないか。
 僕は手早く、例によって、左の腕より血液を取り、それをこの心臓の中へ流しこんで、電気心働計を働かせた。だん/\弱って来た心臓は、僕の血液に触れるなり、急に勢《いきおい》を増して、凡《およ》そ三十回ほどはげしく搏動したが、又|忽《たちま》ち力を弱めて、今度はぱったりやんでしまった。即ち、心臓は死んだのである。永久に死んだのである。でも、曲線だけは、鮮かに現像され、分析研究して見たところ、悲哀とも、苦痛とも、憤怒とも、恐怖とも、どれにも類しない。又、どれにも類して居るような性質を持って居た。
 さて、失恋曲線を作った僕は、失恋の反対の情緒たる恋愛曲線を得たいものだと思うに至った。蓋《けだ》し、飽《あ》くことを知らぬ科学者の欲望である。然し、嘗《かつ》ては恋愛を感じても、今は失恋をしか感じない僕が、どうして恋愛曲線を作ることが出来よう。これは及びもつかぬことである。こう考えて諦めようとすればする程、愈《いよい》よ作って見たくて仕様がなくなった。そうして、後にはこれが一種の強迫観念になってしまった。といって、君に対して甚《はなは》だ失礼な言葉ではあるが、君とはちがって雪江さん以外に、何人にも恋を感じなかった僕が、今更《いまさら》、誰に真実の恋を感ずることが出来よう。実際、僕は、真実の恋を雪江さん以外の人には感じ得ないのだ。して見れば、到底恋愛曲線は得られない訳だ。と思っても、やはり一旦強迫観念となったものは容易に去らない。で、致し方がないから、失恋を転じて恋愛となすべき方法はないものかと、僕は頻《しき》りに考《かんがえ》をめぐらしたよ。そうして、考えて、考えて、僕は一時発狂するかと思うほど考えたのである。
 ところが、はからずも、先日、ある人から、君と雪江さんとが、愈《いよい》よ結婚するという通知を受取ったのである。すると、恰《あたか》も焼け杭《ぐい》に火のついたように、失恋の悲しみは、僕の体内で猛然として燃え出した。いわば、僕は失恋の絶頂に達したのである。と、その時、僕はこの絶頂に達した失恋をそのまま応用して、恋愛曲線を書くことが出来るという信念を得たのである。
 君は数学で、マイナスとマイナスとを乗ずるとプラスになるということを習ったであろう。僕はこの原理を応用して、失恋を恋愛に変えようと思ったのだ。即ち、失恋の絶頂に達した僕の血液を、失恋の絶頂に達した女の心臓に通過せしめたならば、その時に描いた曲線こそは、恋愛の極致をあらわすものだと僕は考えたのだ。こういうと君は、失恋の絶頂に達した女を何処《どこ》から連れて来るかと訊ねるであろう。然し、その心配は無用である。何となれば、僕が以上の如き原理を考え出したのも、実は失恋の絶頂に達した女を見つけたが為であって、その女こそは、外ならぬ、君と雪江さんとの結婚を知らせて来た手紙の主なのである。
 君は定めし思い当ることがあるであろう。その手紙の主こそ、君の結婚によって、失恋の極致に達したのだ。君は多くの女を愛したことがあるから、女の気持も多少わかって居るだろうが、その女も僕が雪江さん一人を思って居るように、一人の男にしか真実の恋を感じないので、君たちの結婚によって失恋の絶頂に達したのだ。同じく君たちの結婚によって失恋を感じた僕とその女とが一つの曲線を作り上げたら、それこそ、前に述べた原理によって、まさしく恋愛曲線ではなかろうか。而《しか》も、その女は絶望のあまり死のうとして居るのだ。君よ、死にま
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