謂恋愛曲線の製造元なのだ。
だが、電気心働計の説明にうつる前に、以上の如く切り出した心臓の運動を、如何にして分析し研究するかということを語って置かねばならない。たゞ肉眼で観察したゞけでは、精確な比較研究をすることが出来ぬから、どうしてもその運動を適当に記録しなければならない。その運動を記録したものが即ち「曲線」なのだ。従って恋愛曲線なる語は、恋愛運動の記録ということを意味するのだ。君は、地震が地震計によって曲線として記録されることを聞いたであろう。今、煤《すゝ》を塗った紙を円筒に巻きつけて、それを規則的に廻転せしめ、運動する物体から突出した細い挺子《てこ》の先をその紙に触れしめると、その物体の運動するに従って、特殊な曲線が白くあらわれる。心臓の運動もこれと同じ方法によって煤紙に書かせることが出来るのであるけれど、僕は特に心臓の発生する電気に興味を持ったので、主として前記の電気心働計を使って、研究の歩を進めたのだ。
すべて筋肉が運動する際には、必ず多少の電気が発生する。所謂動物電気なるものがこれであるが心臓も筋肉で出来た臓器であるから搏動ごとに電気が発生する訳だ。そうしてその電気の発生の有様を、曲線であらわそうとする器械が電気心働計なるものだ。この器械を最初に発明した人はオランダのアイントーウェンという人だ。曲線といっても、前に述べたような簡単なものではなく、その原理は聊《いさゝ》か複雑である。心臓から出る電気を一定の方法によって導き、それを蜘蛛の糸よりも細い、白金《プラチナ》で鍍金《めっき》した石英糸に通過せしめ、糸の両側に電磁石を置くと、糸を通過する電流の多寡によって、その糸が左右に振れるから、その糸をアーク燈で照すと、糸の影が左右に大きく振れ、それを細い隙間をとおして、写真用の感光紙に直接感ぜしめ、然る後現像すれば、心臓の電気の消長を示す曲線が、白くあらわれる訳である。感光紙は活動写真のフィルムのように巻きつけて具えられてあるから、二十分、三十分間の心臓運動の模様も、自由に連続的に曲線としてあらわすことが出来るのである。僕が君に送らんとする恋愛曲線も、この感光紙にあらわれた曲線に外ならない。
さて、僕は先ず、僕の研究の準備として、切り出した心臓について、諸種の薬物の作用を研究したのだ。即ち、最初にロック氏液を心臓に通じて、常態の曲線を写真に撮り、然る後試験しようと思う薬品をロック氏液に混じて通じ、そのときに起る心臓の変化を曲線として撮影するのである。肉眼で見て居るだけでは、あまり変化がないようであるけれども、曲線を比較して見ると、明かな変化を認め、それによって、その薬物が心臓に如何なる風に作用したかを知ることが出来るのだ。ジギタリス剤、アトロピン、ムスカリン等の猛毒からアドレナリン、カンフル、カフェイン等の薬剤に至るまで心臓に作用する毒物薬物の殆どすべてにわたって、僕は一々の曲線を作り上げたのだ。然し、これだけのことは、別に新らしい研究ではなく、すでに多くの人によって試みられた所であって、要するに僕の本研究の対照試験に過ぎなかった。
然らば僕の本研究は何物であるかというに、一口にいえば、各種の情緒と心臓機能との関係だ。即ち俗にいう喜怒哀楽の諸情が発現したとき、心臓はその電気発生の状態に如何なる変化を来すかということだ。誰しも経験するとおり、驚いた時や怒ったときには、心臓の鼓動が変化する。僕はそれを切り出した心臓について、所謂《いわゆる》客観的に観察したいと思ったのだ。恐怖の際に血中にアドレナリンが増加するという事実は既に他の学者の認めたところであるから、恐怖の際の血液を、切り出した心臓に通じたならば、アドレナリンを通じたときと、同じ変化が曲線の上にあらわれるべき筈だ。この事実から類推するときは、恐怖以外の他の諸情緒の際にも、血液に何等かの変化があるべき筈で、従って、動物に喜怒哀楽の諸情を起さしめ、その時の血液を、切り出した心臓に通じて、電気心働計によって曲線を撮ったならば、各種の情緒発現の際、血液中にどういう性質の物質があらわれるかを推定することが出来る訳である。
然し、このような研究には、言う迄もなく幾多の困難が伴うものだ。理想的に言えば、心臓を切り出した同じ動物を怒らせたり、苦しませたりして、その血液を通じなくてはならぬが、それは出来ない相談だ。で、致し方がないから、甲の兎の心臓、乙の兎の種々の情緒発現時に於ける血液を採って、それを通じて研究することにした。次になお一層困難なことは、兎を怒らせたり、悲しませたりすることだ。兎は元来無表情に見える動物であるから、その顔付から、喜怒哀楽の情を認めることは出来ず、従って、怒らせたつもりでも兎は案外怒っても居らず、又楽しませたつもりでも、兎は案外楽しんで居らぬかも知れ
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