象とする学問であるから、なるべく人間に近い動物を選びたいと思い、後には主として、兎の心臓について研究を進めた。然し、蛙の心臓よりも、兎の心臓の方が、その取り扱い方は遙に複雑であるから、可なり熟練を要する仕事であり、はじめは助手を要するほどであったが、後には一人で何事も出来るようになった。先ず兎を、家兎《かと》固定器に仰向けにしばりつけてエーテル麻酔をかける。兎が十分麻酔した時機を見はからって、メスと鋏とを以て、胸壁の心臓部を出来るだけ広く切り取り、然る後心臓嚢を切り開くと、そこに、盛んに活動しつゝある心臓があらわれる。胸中深く秘《ひそ》められた心臓は、外気に晒《さら》されても、何喰わぬ顔して動き続けて居る。君! 全く心臓は曲物《くせもの》だよ。「ハートはままにされない」と誰かゞ言ったが、全くその通りだ。愈よ心臓があらわれると、今度はそれを切り取るのだが、そのまゝメスをあてゝは出血のために手術が出来なくなるから、大静脈、大動脈、肺静脈、肺動脈等の大血管を悉《こと/″\》く糸をもってしばり、然る後にメスを以てそれ等の大血管を切り離すのだ。
 切り出した心臓は、すぐさま、一旦摂氏三十七度内外に温めたロック氏液を盛った皿の中に入れるのだ。栗の実ほどの大きさをした兎の心臓は、さすがにぐったりして一時搏動を中止する。そこで、手早く、肺動脈と肺静脈の切り口をしばり、大動脈と大静脈の切り口にガラス管を結びつけ、更に取り出して特別に設けられた一尺立方ほどの箱の中の、適当な場所にガラス管を結びつけ、摂氏三十七度に温めたロック氏液を通ずると、心臓はみごとに搏ち出すのだ。このロック氏液というのは一プロセントの塩化《えんか》ナトリウム、〇・二プロセントの塩化カルシウム、〇・二プロセントの塩化カリウム、〇・一プロセントの重炭酸ナトリウムの水溶液であって、ほゞ血液中の塩類成分の量に一致して居るから、心臓は血液を送りこまれて居ると同じ状態になって、その搏動を続けるのだ。然し、たゞこの液を通ずるだけでは、心臓も遂には疲れて来る。いかに生に執着の強い心臓でも、外からエネルギーを仰がなければ、動き続けることは出来ない。卑近な言葉で言えば、食物が欠乏しては動けない。そこで通常この液の中へ、エネルギーの源《もと》即ち心臓の食物として、少量の血清アルブミンか又は葡萄糖を加えると、心臓は長い間搏動を続けるのであ
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