ぬのには、はたと当惑せざるを得なかった。
そこで、僕は兎の実験を中止して、犬について行《や》って見ることにした。即ち甲の犬の心臓を切り出して、然る後乙の犬を怒らせ又は楽しませて、その血液を採って通過せしめたのだ。それによって曲線を作ることは出来たけれど、やっぱり、理想的ではないのだ。というのは、折角犬を楽しませてもいざ血を採るとなると大いに怒《いか》るので、結局怒りの曲線に近いものが出来、それかといって犬を麻酔せしむれば、無情緒の曲線しか取れない訳で、たゞ憤怒《ふんぬ》の際、又は恐怖の際の曲線だけが比較的理想に近いものとなった訳である。
こういう訳であるから、諸種の情緒発現の際の血液が心臓に及ぼす影響を理想的に曲線に描かしめるためには、人間について実験するより外はないのである。人間ならば、怒った時の血液、悲しい時の血液、嬉しい時の血液が比較的容易に採取し得られるからだ。さり乍《なが》ら、人間の実験で困ることは人間の心臓が容易に手に入《い》り難いことだ。死んだ人の心臓でも滅多《めった》に手に入り難いのであるから、況《いわ》んや生きた人の心臓をやだ。で、已《や》むを得ないから僕は兎の心臓で実験することにした。又、血液の点に就て言っても、誰も喜んで血液を提供してくれるものはないから、僕は自分自身の血液で実験することにした。即ち僕は、色々な小説を読んで或は悲しみ、或は憤《いきどお》り、或は嬉しい思いをして、その度毎に注射|針《しん》をもって、左の腕の静脈から五|瓦《グラム》ずつの血液を取って、実験をしたのだ。兎の場合でも犬の場合でもそうだが、すべて血液を採るときは、凝固を防ぐために、注射針の中へ、一定量の蓚酸《しゅうさん》ナトリームを入れて置くのだ。
かくて得た曲線を研究して見ると、嬉しい時、悲しい時、苦しい時などによって、その曲線に明かに差異が認められた。恐怖の時の曲線は、やはりアドレナリンを流した時の曲線に類似し、快楽の時の曲線はモルヒネを流した時の曲線に類似して居たが、それはたゞ類似して居るというに過ぎないのであって、微細な点に至っては、それ/″\特殊な差異が認められるのであった。そうして、後に、僕は練習によって、どれが恐怖の曲線か、どれが愉快の曲線か、どれがアドレナリンの曲線か、どれがモルヒネの曲線かということを、曲線を見たゞけで区別することが出来るようになっ
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