名古屋スケツチ
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)金の鯱鉾《しゃちほこ》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三時間|乃至《ないし》五時間も、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)すかたらん[#「すかたらん」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)げた/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 はしがき
『名古屋、おきやあせ、すかたらん』
 誰が言ひだしたか、金の鯱鉾《しやちほこ》に、先祖代々うらみを持つた人でもあるまいに、まんざら捨てたものでもない名古屋の方言から、『おきやあせ、すかたらん』を選んで、その代表的のものとするなど、まことにすかたらん[#「すかたらん」に傍点]御仁と申すべきである。
 だが、どうも、その方言の響がミユージカルでないことは、いくら慾目でも、認めざるを得ないところであると同時に、市街全体が、金の鯱鉾に光を奪はれたのか、何となく暗い感じのするのも争はれない真実であらう。『と同時に』を今一つ、名古屋人の心が、薄情で、我利《がり》々々だといふことも、口惜しいけれど是認しなければならぬと思ふ。おや、こんな悪口は書くつもりではなかつたのに、つい筆がすべつて……。尤《もつと》も、われとわが身を悪くいふ癖も、名古屋人間の無くて七癖の一つかも知れぬ。筆者は典型的の名古屋人なのである。
『花の名古屋の碁盤割、隅に目を持つ賤《しづ》が女《め》も、柔和で華奢でしやんとして、京の田舎の中国の、にがみ甘みをこきまぜて、恋の重荷に乗せてやる伝馬町筋十八丁、其他町の数々を語り申さん聞き玉へ』
 これは宝永七年、名古屋で刊行された『今様くどき』の名古屋町尽しの冒頭だがその碁盤割も、大名古屋市となつた今は崩れて、人口八十八万は有難いけれど、日本第三の都市と威張つたならば、その都市の田圃で、盛んにメートルをあげる蛙どもから、げた/\笑はれるにちがひない。従つてその、『柔和で華奢でしやんとして』居る筈の女も、今は追々に姿をかくして、尤も、これは名古屋ばかりの現象ではないけれど、遅がけながら、モダン・ガールといふものが見られるのは御芽出度《おめでた》いとも申さうか、『今様くどき』の著者には、ちよつと面はゆい心地がする。
 だが、宝永と昭和の間には、大きな年月の差異がある。とは、言はずと知れたことだが、やゝもすると、昭和の名古屋に、宝永の俤《おもかげ》が多分に残つて居るのは、あながち筆者のひが目ではないやうだ。尤も、どの都市にだつて、あの新らしさを売り物にするヤンキーたちの、礼讚措くあたはざるニユーヨークにだつて、昔の俤は残つて居るから、それは決して質の問題ではないが、今の京都よりも、却《かえ》つて名古屋に昔しくさい感じの多いのはどうした訳であらうか。廬山《ろざん》に入つては廬山を見ず、まして、病身もので、めつたに外出しない筆者のことだから、大きなことは言へぬけれど、どうも名古屋は近代化しにくい性質らしい。
 とはいふものゝ、年々歳々、たえず変化はしつゝあるのだ。昭和三年には、昭和三年らしい色彩《いろどり》がある筈だ。それをスケツチして見ようといふのが、この一篇の目的だが、何しろ書斎の虫のことだから、碌な観察は出来かねる。

 広小路
 名古屋を西から東へ横断する、いはゞ銀座通りである。名古屋駅を下りてから柳橋、納屋橋を越すまでは、銀座どころか、銅座か鉛座ぐらゐの感じしかないが、一たび納屋橋に立つて、静かに東を向いて眼を放つならば、さすがに、近代都市の面影を認めざるを得ない。十数年前までは、視野のまん中に、はるかむかうに日清戦争記念碑が、生殖器崇拝論者を喜ばせさうな形をして突立ち、なくもがなの感じを起させたものだが、今は、覚王山のほとりに移されて、視野に入るものは、第一銀行支店、三井銀行支店、住友ビル、名古屋銀行、明治銀行など――考へて見れば、拝金宗の寺院ばかりであるが――両側にいはゆる輪奐《りんかん》の美を争つて居る。尤も、都市の大建物《おおたてもの》で、拝金宗の権化ならざるものは尠《すく》なく、ニユーヨークのウールウオース・ビルヂングの案内書に、商業寺院 Church of Commerce として紹介されてあるのは、さすがにヤンキーだけあつて、言ふことが徹底的である。
 街の両側にある柳は、初夏の頃など、眺め心地が頗《すこぶ》るいゝ。その柳に因んで名づけられた新柳町に、前記の諸寺院の大部分がある訳だが、旧本丸から熱田まで縦走して居る本町筋との交叉点から、市の中心をなす大津町筋との交叉点までがいはゞもつとも繁昌なところであつて、『栄町』の名は至つてふさはしい。その栄町と大津町との交叉点に立つて、暫《しばら》くの間、眼を四方に配るならば、モダーン名古屋の特徴がしみ/″\感ぜられるであらう。
 東北隅に座を占めて居る赤煉瓦の建物は日本銀行名古屋支店で、この支店を動かすことが出来なかつたゝめ、大津町筋を真直にすることが出来ず、電車線路が歪んで居るところは、弁膜不全の心臓を見るやうである。赤煉瓦の建物など、どう考へても時代遅れだが、その時代遅れの建物にがん張られて、街の方を歪めたところなどは、どうもやつぱり名古屋式であるらしい。日本銀行支店など、名古屋の三銀行(名古屋、愛知、明治)から見れば問題にされて居ないのだが、いや、むしろ継子扱ひなのだが、その継子のために折角の都市の美観を犠牲にするとはげにも残念至極なことではないか。
 その日本銀行と対角線的位置にあるのが、旧伊藤呉服屋、今は栄屋と称する食料品専門の販売店である。近々改築される筈で、いやもう一日も早く改築してほしいと思はれる、旧式な洋風建物で、而《しか》もその中で、台所専門のあきなひ[#「あきなひ」に傍点]が行はれて居るといふのも、やつぱり名古屋式であるかも知れない。
 あとの二つの角にある建物は、これといふ特徴のないもので、名古屋市の中心点はいはゞ、まことにさびしいものである。たゞ、大津町筋を南にさがると、松坂屋デパートがあり、昨今はどうやら、そちらへ中心点が移動しさうであるが、広小路をはなれて中心点をつくることは当分はどうもむづかしさうである。その証拠に、断髪やセーラーパンツは、やはり広小路に最も多く見られるからである。メニキユアド・ハンドに、スネークウツドのケーンを持ち、しやんとしたネクタイをかけた所謂《いわゆる》広小路伯爵は、カフエー・ライオン、カフエー・キリンを根城として、夜になるのを待ちかねるのである。
 一たび夜の帷《とばり》が下されると、広小路は名代の夜店の街とかはる。なにも之れは珍らしい現象ではないけれど、その夜店の種々雑多なことは、日本のどの都市にも遜色がないであらう。市役所前から名古屋駅頭まで、断続しつゝある偉観は、大した自慢にはならぬが、それ自身として、すばらしいものである。その夜店に食べ物の多いのは、名古屋の特徴が食べ物にあるといふ見かたに一つの材料を提供する。尤も名古屋には、食通は至つて少ない。名古屋人には、おつな[#「おつな」に傍点]食物《くいもの》よりも、やすい[#「やすい」に傍点]食物が気に入るのだ。まさか、屋台店で、食べ物を値切る人間もないけれど、値切りかねないのが、名古屋人の腹なのである。
 いや、広小路伯爵の話が、とんだところへ落ちてきたが、元来広小路伯爵なるものは、純粋の名古屋人ではないのであるから、この悪口に気を揉む必要はないであらう。その代り、広小路伯爵たちは、赤電車の通つたあとの広小路には多くは無関心である。けれども、名古屋の名古屋らしさは、午前零時以後の広小路界隈にあるといつてよい。そこにはかの『なも』『えも』のなまりを売り物にする紅裙《こうくん》たちが、縦横にうごめき始めるからである。盛栄連《せいえいれん》、浪越連《なみこしれん》、廓連《かくれん》、睦連《むつみれん》、昨今、税金の値上げときいて悲鳴をあげて居るのはいさゝか艶消しだが、さすがに玉は悪くない。

 大須界隈
 東京の浅草、大阪の千日前、京都の新京極、それに匹敵するのが名古屋の大須《おおす》である。そこには金竜山浅草寺ならぬ北野山真福寺があつて、俗にこれを梅ぼしの観音といふ。梅ぼしとは、『おゝ酸《す》!』(大須)といふ駄洒落だが、実は先年まで、観音堂の裏手に『大酸《おおす》』ならぬ『大あま』旭遊廓があつて、大須の繁盛したのは、半ばそのためであつた。旭遊廓は今の中村に移転したのだが、その当座、遊郭を飯の種として居た人たちは、この先どうなることかと蒼くなつたけど、観音様の御利益は、『刀刃段々壊《とうしんだんだんかい》』で、だん/\よくなつたなどゝいふのは罰当たりな駄洒落かも知れない。
 観音様の境内が、食べ物の店で占領されて居ることは、こゝに至つて名古屋の特徴が最も露骨にあらはれて居ると言つてよい。仁王門から本堂に通ずる道は、食べ物店を迂回する。何と痛快な現象ではないか。こゝ十数年前までは、すべての民衆娯楽機関が、境内のいはゞ四面を取り囲んで居たが、今は映画が主になつて、もう、あの説教源氏節の芸子芝居は見られなくなつてしまつた。説教源氏節は誰が何と言つても、名古屋のもので、名古屋情調をたつぷり持つたものだが、今はもう、安来節などに押されて、大須から程遠からぬ旧末広座を活動小屋にした松竹座で、アメリカ本場に劣らぬジヤズが聞けるなど、時の力は恐ろしいものである。
 大須といへば縁日を思ふ。香具師《やし》はやつぱり大須を中心として活動して居るのだが、これももう追々すたれて、珍らしい芸は見られなくなつた。昔は夜の大須は、到底広小路などの及ぶべくもないほど活気があつたものだが、遊郭がなくなつてからは、げつそりと寂しくなつた。観音堂裏は、昔の不夜城の入口で、今僅かに玉ころがしや空気銃、夏向きには鮒釣りなどで、職人肌の兄貴連を引きつけて居るが、弦歌のひゞきぱたりと絶えて二三の曖昧宿に、臨検におびえながら出入りする白い首が闇にうごめくだけではたゞもう淋しさの上塗りをするだけである。
 スケツチでなくて何だか懐旧談のやうになつてしまつた。けれども、明治末期に生まれたモダン・ボーイならざる限り、現在の大須をながめては、その昔大須にあふれて居た名古屋情調を顧りみて惜まざるを得ないのである。さうして一たび旧名古屋情調をしのびはじめたならば、今の名古屋で、だんだん勢力を得て来たモダン・カフエーへは、ちよつと、はいる気がなくなるのである。
 とはいふものゝ、最近の名古屋を知らうとするものは、数十軒を数ふるカフエーを見のがしてはならない。昼なほ手さぐりを要するやうな暗さの中で、コーヒーか紅茶一杯に,ものゝ三時間|乃至《ないし》五時間も、ウエートレスと饒舌にふける気分は、到底筆者などの、及びもつかぬ感覚であり心境であるのだ。
 尤もこれ等のカフエーが新時代の要求によつて生れたかどうかは考へ問題である。小資本ではじめ得られて、比較的多くの収入があるといふことも、カフエーの殖《ふ》えた原因の一つであらう。何しろ、大須附近に、いはゞ一ばんはじめに、カフエー・ルルが出来たのは、まだたつた三年ばかり前であるのに、それ以後、四十軒にも殖えたのは、一種異様の現象でなくてはならない。はじめ易い商売だといつても、客がなければ自然につぶれなければならぬのに、ます/\殖えて行く傾向のあるのは、やつぱり新時代に適して居るからであらう。
 そのカフエーと共に、今名古屋で、漸次流行しようとして居るのが、ダンス・ホールである。大阪で禁止されたゝめの一種の調節現象かも知れぬが、そのダンス・ホールの一つが中村遊郭に出来て遊郭よりもよく流行つて居るのは皮肉なことゝいはねばならぬ。といふよりも、遊郭経営者の一考を要すべき点であらう。

 中村遊郭
 たとひ中村遊郭が、東洋一の建築美を誇つても、さうして今なほ木の香新らしく嫖客《ひようきやく》の胸を打つても、やはり遊郭は旧時代の遺物である。いつそ古
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