しようと言い出した。恋のためなら駈落などする必要はなかりそうであるけれども、一つには、彼のけいずかいたる証拠がだんだん警察の手に重なって、身辺が頗《すこぶ》る危うくなったからである。女はもとより彼と駈落などは毛頭もなく、せっぱつまって遂に恐ろしい計画を胸に抱き、深夜に男の家をたずねたのである。グレージーはそのとき、家にあるだけの宝石を荷造りして女が来れば手に手を取って逃げ出すつもりであった。
 二人は逢った。その時、彼女はマッフの中に怖ろしい毒薬の瓶をたずさえていた。彼女はいよいよ出発するに当って首途《かどで》を祝うために祝盃をあげようではないかと言い出し、自ら立って戸棚から一個[#「一個」に傍点]の盃と白葡萄酒の瓶を持って来た。グレージーが葡萄酒の栓を抜いたとき、
「まあ、わたしとしたことが、たった一つしか盃を持って来ないなんて。ねえ、あなた、ちょいと、もう一つ取って来て下さい」
と、彼女は平気を装って言った。
 グレージーが盃を取りに行くと、その間に彼女は手早く毒薬の瓶から盃の中へ毒液を滴らした。そうして、グレージーが戻ったとき、彼女はその盃へ黄色の葡萄酒をなみなみと注いだ。
「さあ、これをお上りなさい」と彼女はやさしく言った。
 グレージーは嬉しがり、「有難う、それじぁ、二人でこの盃を飲もうよ。恋の酒だもの」こういって、彼はその眼に恋の焔を漲らせながら先ず盃を彼女の口もとに持って行った。
 彼女はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
「いけないいけない」と彼女は思わず叫んだ。
「わたしは別の盃でのむのよ。注いで頂戴」と声ふるわせて言った。
「何故?」と、グレージーの眼には始めて疑惑の色が浮んだ。
「わたしがあなたの盃についであげたのだから、あなたはわたしの盃につぐのよ」
と、彼女の答はしどろもどろであった。
 それからグレージーは不快な顔をしながら静かに盃を唇のそばに持って行った。そうして、彼女の様子を見まもった。盃が唇に触れたとき彼女の顔色がさっと変った。グレージーは忽ち彼女の恐ろしい計画を見破った。そうして、いきなり盃を床の上に投げつけた。
「俺を殺すつもりだったな。よし、殺すなら殺せ、俺も貴様を殺してやろう」
 こう言って彼は立ち上って彼女の腕をぎゅッとつかんだ。
「あれーっ」と叫んで彼女が死物狂いで振りはなすと、彼女の片袖がグレージーの手に残った。グレージーは彼女を追いかけた。あわや彼女が彼の手で捕えられんとしたとき、グレージーの眼は急に光を失って、全身をぐたりとさせ、そばの椅子の上にたおれかかったのである。そうして彼女は虎口をのがれて逃げ出すことが出来た。
 翌日グレージーの死体が発見された。警官は彼の手に女の片袖が握られていることと、床の上に盃が割れていることと、机の上に注ぎかけの盃のあることによって、大凡《おおよそ》その場の状景を察したが、死体解剖の結果、中毒の徴候は発見されないで、死因は心臓麻痺だとわかった。彼の弱い心臓は激情のために遂に破綻を来《きた》したのである。そうして警察では相手の女に対して、何の手続も取らなかった。
 話し終って見れば彼の恋の結末はそんなに変でもなさそうである。むしろ私の頭が変なのかもしれない。
[#地付き](「大衆文芸」大正十五年七月号)



底本:「探偵クラブ 人工心臓」国書刊行会
   1994(平成6)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「大衆文芸」
   1926(大正15)年7月号
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年7月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2007年8月21日作成
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