た時の心持は、今から思ってもぞっとします。即ち友人は、立派な粟粒結核《ぞくりゅうけっかく》だと申しました。粟粒結核! それは死の宣言と選ぶところがありません。妻はよほど以前から肺を冒されて居たのを、我慢に我慢して来たので遂に取りかえしのつかぬ運命に陥ってしまったのです。私は絶大の悲哀に沈みましたが、何だか其処に一縷《いちる》の希望があるようにも思いました。いう迄もなく人工心臓によって妻を救い得《う》るだろうという希望です。
妻は私と友人との顔つきを見て、早くも自分の運命を察したと見え、友人が去るなり、
「わたしもう治らぬのでしょう?」
と訊ねました。
私は返答に行き詰り、黙って首を横に振りました。
「わたしにはちゃんとわかって居るのよ。然し、わたしは死ぬことがちっとも怖くない」
その声がいかにも希望に満ちて居《お》りますので、私は思わず、
「え?」といって彼女の顔を見つめました。
「人工心臓があるのですもの。ねえ、わたしが死んだら、すぐ人工心臓を取りつけて頂戴、わたしはきっと甦ります」
「そんなことを言っては悲しくなるじゃないか。気を大きくして居なくてはいかん」
「あなたこそ気を大きくして頂戴。折角、これまで実験を重ねて来たのですから、人間に実験しなくちゃ、何にもならないわ。わたしは兎で成功したときに、たとい病気にならないでも、わざと死んでわたしの身体で実験をして貰おうと決心したのよ」
私は思わず彼女の手を握って、彼女の唇に接吻しました。
「そう、実験して下さる? ああ嬉しい? 今までは、兎や犬ばかりの実験だったから、人工心臓での生存が、どんなものか、誰もその感じを話してくれなかったでしょう。それをわたしは自分で経験したいと思うの。きっと、あなたの言うとおりに、安楽な世界が実現されると信ずるわ。それを思うと早く死にたいような気がする。ねえ、わたしいつ死ぬでしょうか?」
私はますます悲しくなりました。
「まあ、いいじゃないか……」
「よくないわよ。間に合わないと悲しいから、早く準備をして頂戴!」
そうだ! とても助からぬものならば、人工心臓によって妻の希望を達してやるのが、妻に対する親切だ! こう思って私は看護の暇を見て人工心臓の準備をしました。いつもは妻と二人でするのですから、心は勇み立ちましたが、その時は何となく暗い思いが致しました。
九
人工心臓の準備が終った翌朝、妻の病は革《あらた》まりました。友人たちは駈《か》けつけて来ましたが、妻は主任教授と主治医たる友人との二人をとどめて人々を立ち去らせ、私が絶命するなり、良人《おっと》に人工心臓の実験をして貰おうと思うから、良人に法律上の迷惑がかからぬように保証してもらいたいと頼みました。主任教授の眼には涙の玉が光りました。
それから妻は二人にも室を退いて貰って、私に、人工心臓を見せてくれと申しました。私が手に取りあげて見せますと、妻はにっこりと笑いましたが、それと同時に咽喉《のど》が、一度に鳴って、静かに瞑目して行きました。
はっと我に返った私は、室外の人々に、妻が絶息したことを告げ、手術中誰も中へはいって来ないように頼み、速かに手術に取りかかりました。
胸の皮膚に刀《メス》を触れた時の感じ、それは今でも忘れることが出来ません。手早く胸廓を開いて、人工心臓を結びつけました。手術は彼女の死後九分に取りかかり十三分間で終りました。
血く染まった手でスイッチを捻ると、モーターはその特有な音をたてて廻りはじめました。一分、二分、三分、私は彼女の脈を検査しながら、その眼をみつめました。活栓は一分間に二百五十回の割で動きましたから、脈搏の数《すう》を数《かぞ》えることは出来ませんが、血液が無事に巡回して居ることは、はっきり感ぜられました。
五分! 彼女の唇がその色を恢復すると同時に、眼瞼《がんけん》がかすかにふるえました。私は思わず、うれしさの叫びをあげようとしました。犬と羊の実験をしたときも、最初にこの眼瞼の顫えを経験したからです。
七分! 彼女の両眼球が左右へ廻転し始めました。私は、張り裂る程の喜びを無理に押えて彼女を見つめました。
九分! 彼女はぱっちり眼《まなこ》を開いて空間をながめ、唇を動かしました。
十一分! 彼女の視線は私の顔に集中されました。
十三分! 彼女は「ああ」と太息《といき》をもらしました。私は思わず叫びました。
「房子! わかるか、生きかえったのだぞ!」然し彼女はにっこりともしませんでした。
「房子! 人工心臓は成功した。うれしいだろう?」
「うれしい」と彼女は機械的に声を出しました。
「うれしいか。僕もうれしい。お前は新らしい生命を得たのだ!」
「あら!」と彼女はやはりマスクのような顔をした儘申しました。「わたし今、うれしいといったわねえ。然し、うれしいという気持になれない」私はぎくり[#「ぎくり」に傍点]としました。そうしていきなり彼女に接吻しました。
「あら、許して頂戴! わたしちっとも、なつかしいという気がしない」
私は更に吃驚《びっくり》しました。
「あなた、済まない。笑おうと思っても笑えない。うれしがろうと思ってもうれしがれない。これでは生きて居ても何にもならない!」
その時の私の絶望! 私は思わず、ベッドに顔を埋めました。
「あなた! 駄目! 早く人工心臓を取り去って頂戴。死ぬことも、生きかえることも、何の感じもない!」
二年間の研究はこの一|言《ごん》で木っ葉微塵に打ち砕かれました。恐怖を除くことのみを考えた私たちは、人工心臓が快楽やその他の感情をも除くことに気がつかなかったのです。悔恨《かいこん》! 慚愧《ざんき》! 妻は今それさえも感じません。人工心臓は結局人工人生に過ぎなかったのです。
パチッ! 私は思い切って、モーターをとどめるべくスイッチを捻《ね》じました。
いや、とんだ長話をしましたねえ。私のこの苦い経験は或はランゲの説を実証したかもしれませんが、私はそれ以後、機械説なるものに慊《あきた》らぬ感じを懐《いだ》きました。機械説は結局人間の希望を打ち壊すものです。恐怖があり、病気があり、死ということがあればこそ、人間に生き甲斐があるのかも知れません。
かくて私は妻の死と共に人工心臓の研究をふっつり思い切りました。然し、先刻御話し申しあげた肺臓の窒素固定作用だけは、機を見て研究を続けたいと思いますが、兎角《とかく》あせると事を仕損じますからゆるゆる取り掛るつもりです。
いや、あなたが窒素固定法の発明者ハーバー博士の来朝することを話したものだから、つい、私一代の懺悔話をしました。結局、生理学者は、水銀の「人工心臓」を拵《こしら》えて楽しんで居る方が遥かに安心かも知れませんねえ、ははははは。
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「大衆文芸」
1926(大正15)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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