走ったものです。
ことに私をして人工心臓をあこがれしめたものは、心臓に関する極めて煩瑣《はんさ》な学説です。微《び》に入り細《さい》に亘《わた》るのは学術の本義ですけれども、学生時代に色々な学説を聞かされるということは可《か》なり厄介に感ずるものです。学説の論争をきくということは、たまには甚《はなは》だ面白いですけれども、幾つか重なって来るとたまりません。生理学などというものは、むしろ学説《がくじゅつ》の集合体といってもよいもので、そういう学説を減すことは、生理学を修得するものの為にもなり、ひいては人生を簡単化《シムプライズ》することが出来るだろうと私は考えました。
御承知かも知れませんが、心臓運動の起原については二つの説があります。一つは筋肉説と唱えて、心臓は心臓を形づくる筋肉の興奮によって動くという説、今一つは、その筋肉の内へはいって来て居る神経の興奮によって動くという説があります。心臓は、之を体外に切り出しても、適当な方法を講ずれば、平気で動いて居《お》りますから、心臓を動かす力が心臓自身から発するものであるということに疑いはありませんが、さて、その力が筋肉から発するか、その中にある神経から発するかに就てはいまだに決定しては居《お》りません。そうして、その何《いず》れであるかを発見するために随分沢山な学者が随分色々な動物の心臓に就て研究し、中にはその尊い一生涯をその研究に捧げた人さえありますが、それでも満足の解決がついて居《お》らぬのです。ある学者の如きはカブトガニの如き滅多に居ないような珍らしい動物の心臓に就て研究し、神経説を完全に証拠立てたなどと大《おおい》に得意がって居ましたが、兎角《とかく》、偏狭な性質に陥り易い学者たちは、容易にそれを認めるに至りません。
そこで私は考えたのです。筋肉説にしろ、神経説にしろ、畢竟《ひっきょう》、心臓というものがあるからそういう面倒な学説が起って来るのだ。若し人工心臓が出来た暁には、筋肉説も神経説も木っ葉微塵に砕かれる。モーターを廻す電気がその起原になるのだから、これ迄の学説は、唯一の「電気説」に統一されてしまうのだ。而《しか》もこの電気説に対しては何人《なんぴと》も反対の説を吐く余地はないのだ。何と痛快ではないか。……若気《わかげ》の至りとはいい乍《なが》ら、至極あっさりした考《かんがえ》に耽《ふけ》ったものです。然しよく考えて見るに、若し神様が、私たちの身体を御造りになったとしたらば、やれ筋肉説だの、やれ神経説だのと騒いで居ることは、神様の眼には、電気説を空想した私の眼に映じたよりも、もっと滑稽なものに映ずるかも知れません。いずれにしても私は、色々な学説を頭の中に詰め込むことの煩雑さに堪《た》えかねて、大学を卒業したならば、一日も早く人工心臓の発明を完成したいと思いました。
四
三年級になって臨床学科の講義を聴き、直接患者を取り扱うに及んで、私はつくづく現代医学の力無さを痛感すると同時に、私たちの学ぶ医学なるものは、畢竟学説の集積に過ぎぬのであって、実用とはよほどかけ離れて居るものだということを発見しました。学説が右なり左なりへはっきりと片がついて居れば、それに従って治療もはっきり行い得《う》る筈ですけれど、何分学説が論争の中途にあるのですから、治療も当然半端ならざるを得ません。数多い病気のうち、薬剤を以《もっ》て特効的に治療し得《う》るものは片手の指を屈し尽すに至らぬほどの少数で、その他は、ただ、いわば気休めに薬剤を与えて自然に治療するのを待つに過ぎません。そうして、いざ生命が危篤になると、どうです、どの病気にも御承知のとおりカンフル注射を行うことになって居ます。日本だけで一年に百何十万という人が死にますが、その大部分は、カンフルを御土産として、あの世に参ります。このカンフルは申すまでもなく強心剤即ち心臓の働きを強くさせる薬剤ですから、つまり医学の究極は心臓を強くさせることだということが出来る訳です。急性病にしろ、慢性病にしろ、若し心臓さえ変らぬ力で働いて居たならば、治る病気は治り、治らぬ病気は治らぬままに生命を存続することが出来ます。ペストやコレラのような恐ろしい病気も、つまりは最後に心臓が犯されて死ぬに過ぎませんから、医学者たるものは須《すべか》らく、ペストやコレラの病原菌|穿鑿《せんさく》に力をそそぐよりも心臓を鉄の如く強くすること、否、一歩進んで鋼鉄製の人工心臓の製作に工夫をこらすべきであります。さすれば各種の病気を一々研究して、文献を多くする必要は更にありません。人工心臓の発明をさえ完成したならば、如何《いか》なる病気も恐るるに足りません。私はパストールやコッホやエールリッヒなどの業績を思うごとに、彼等が人類に与えた恩恵に感謝すると同時に、これ等の大天才たちは、何故、人工心臓の発明に力を注《そそ》いでくれなかったかと痛嘆するのでありました。昔から医学史上に大きな足跡をつけた人は可なりに沢山ありますが、若しそれ等の人々が、唯一人工心臓の発明に向って精進して居たならば、恐らくすでに理想的なものが出来上り、とっくの昔に理想郷が作られて居たにちがいありません。人類文化発達史上から見た人間の最大欠点は、物ごとを濫《みだ》りに複雑にしたことでした。恰《あだか》も自分で建築した迷路の中を、苦しみさまようことに興味を持って居るかのように見えるのが人間の常であります。物ごとが複雑になれば自然、枝葉の問題のみに心を奪われて、根本を忘れ勝ちになります。だから、ルッソーの如きは、「自然に還れ」と叫びました。自然に還れということは、自然の状態に引き返せということではなくて、枝葉を捨てて根本に還れという意味だと私は思いました。これは一刻も早く人工心臓の発明を完成して、医学の根本に還らねばならぬと、私の心は勇み立ったのであります。
人類文化が発達して、物ごとが複雑化され、医学が枝葉の問題を取扱うようになった結果は、ここに恐ろしい一種の疾病を生み出しました。それは申すまでもなく肺結核であります。肺結核なるものは結核菌のみでは生じ難く、人間の体質が、結核菌の繁殖に都合よくなったときに発生するのでありまして、而も肺結核の起り易い体質は、人類文化発達の結果生ぜしめられるものでありますから、肺結核は要するに人類文化に対する一種の天の皮肉と見做《みな》すことが出来ます。その証拠には、現代の医学は結核に対して何の権威を持ちません。権威どころか、荒れ狂う姿を呆然として袖手《しゅうしゅ》傍観《ぼうかん》して居るという有様です。医師にとっては或は尊い飯櫃《めしびつ》かも知れませんが、患者こそいい迷惑です。
そこで、医学に志すものは、誰しも、結核の治療ということについて思考をめぐらします。私もやはりその一|人《にん》でしたが、この間題も、人工心臓の発明によって直ちに解決がつくことを知りました。私は前にすべての疾病治療法の解決は人工心臓によって為し遂げられると申しましたから、肺結核も当然その中にはいる筈ですが、肺臓という機関は人工心臓と特殊の関係を持って居ますから、特にここで申し上げようと思うのです。
肺臓の主要なる機能は申すまでもなく血液の瓦斯《ガス》交換であります。即ち全身を流れて炭酸瓦斯を含んで居る静脈血は、心臓から肺に送られて炭酸瓦斯を捨て、外気の酸素を取って動脈血となり心臓に返って全身に送られます。ですから、人工心臓を作ると同時に静脈血炭酸瓦斯を吸収又は発散し、同時に酸素を与える装置を附けたならば、もはや肺臓は不用の道具となってしまいます。そうすれば肺臓は如何に結核に冒されようが、何の痛痒《つうよう》も感じません。従って、肺結核問題はたちどころに解決されてしまいます。ことに人工心臓に、いわば人工肺臓を附着せしめて置くときは、人工心臓を人体に備えつける際に、その手術が非常に簡単になる訳ですから、まさに一挙両得というべきであります。
が、人工心臓に人工肺臓を附着せしめて、肺臓を瓦斯交換の仕事から解放するときは、ここに一種の珍らしい現象が起るであろうと私は考えたのであります。それは何であるかというに、若し肺臓の細胞を瓦斯交換の仕事から解放したならば、恐らく人間の食物を非常に節減出来るだろうということです。従って、人工心臓の問題は、単に疾病の悩みから人間を救うばかりでなく、場合によれば、食物問題の悩みからも人間を救い、凡ての人間は所謂、仙人と同じく、霞を喰べて生きて行くことが出来るだろうと想像したのであります。
人工心臓の発明ということに就ては、これまで多少考えて見た学者もあるかも知れませんが、肺臓を瓦斯交換の仕事から解放することによって、食物を非常に節減出来るだろうと考えた人は恐らく私が始めてであろうと思いますから、それに就て一|言《ごん》申し上げて置くことにします。
五
かねて私は、空気の中に大量の窒素《ちっそ》が存在することに就て不審を抱いて居《お》りました。実に窒素は空気全量の五分の四を占めて居《お》りまして、而も人類の生存に取っては何の利益もないと考えられて居《お》ります。すべて物ごとを目的論でもって解釈するのは危険かも知れませんが、私はこの空気中の窒素も酸素と同じく人類の生存に役立つものであるに違いないと思ったのです。同じ空気の中の酸素が、人類の生存に一刻もなくてはならないのに、酸素の四倍の量に当る窒素が無意義に人体に出入りして居るということはどう考えて見ても矛盾です。そこで私は、窒素は決して無意義に人体に出入りして居るのではない。無意義だと思うのは、人間が窒素の価値に気がつかぬに過ぎないのだと考えました。
御承知の通り、人体の最も肝要な組織を構成して居る化学的物質は蛋白《たんぱく》質です。この蛋白質は窒素を中心とした化合物ですから、窒素化合物は人体に取っては一日も無くてはならぬものです。通常私たちは食物によってこの窒素化合物を取り入れて居《お》りますが、かくの如く、化合物となった窒素が人体に欠くべからざるものであり乍ら、気体の形をして居る窒素が人体によって少しも利用されぬということは神様も甚だしい手ぬかりをしたものだと私は考えたのです。そうしてそれと同時に、これは決して神様の手ぬかりではない、神様は、ちゃんと、遊離《ゆうり》窒素をも利用することが出来るように拵《こし》らえて置いて下さったのであるけれども、人間はただそれに気がつかぬだけだ、と私は解釈するに至ったのです。いや、神様などという言葉はあなたに御気に入らぬかも知れませんが、造物主《ぞうぶつしゅ》とか何とか言うより、早わかりがすると思いますから、まあ我慢して聞いて下さい。
さて然らば、神様は、人体の如何なる機関に遊離窒素を利用する作用を授けて置いて下さったでしょうか。それはいう迄もなく、窒素が絶えず出入りする肺臓でなくてはなりません。皮膚が所謂皮膚呼吸と称して、酸素の利用を営む如く、窒素の利用も或は幾分か皮膚によって営まれて居るかも知れませんが、酸素利用が主として肺臓で行われて居るごとく、窒素利用もやはり主として肺臓で行われるべきものだと私は考えたのであります。
あなたは地中に居るバクテリアの一種が、空気中の窒素を固定する作用、即ち、遊離窒素を窒素化合物に変化させる力を持って居ることを御承知でありますか。バクテリアのような最も下等な生物にさえ、そういう霊妙な力を与えられて居るのに、まして最も高等な動物である人間の細胞に、そういう霊妙な力が与えられて居ない筈は無いではありませんか。で、私は、肺臓の細胞にこそは、地中のバクテリアのように、窒素を固定する作用が附与されてあるものと推定したのです。
ところが肺臓の細胞には瓦斯交換という大役があるために、窒素固定の方には自然手が及ばぬにちがいありません。又、人体の生存に必要な窒素化合物は、食物によって補給されて居《お》りますから、あながち肺細胞が働く必要はありません。ところが今、仮りに食物の摂取を中止して所謂飢餓の状態に入《い》
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