初往診
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)先刻《さっき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|町《ちょう》
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 先刻《さっき》から彼は仕事が手につかなかった。一時間ばかり前に、往診から戻って来た彼は、人力車を降りるなり、逃げ込むように、玄関の隣りにある診察室へ入ると、その儘《まま》室内をあちこち歩いて深い物思いに沈むのであった。
 彼の胸はいま、立っても居ても居られないような遣瀬《やるせ》ない気持で一ぱいであった。いつもは彼を慰さめてくれる庭先の花までが、彼を嘲《あざけ》って居るかのように思われた。眼に見ゆるもの、耳に聞くものが彼を苛立たせた。生憎《あいにく》、細君が留守であったので、憂《うき》を別つべき相手はなく、時々門の方をおずおず眺めては、今にも誰かが、息せき切って馳《は》せ込んで来はしないかと心配するのであった。
 どうしてあんな失敗をしたのだろう? 開業してから初めての往診! そのうれしさが、自分を有頂天にならしめたのであろうか? 彼は迎えの人力車に乗って、家を出懸《でか》けて行ったときの晴やかな感じを呪わし
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