っ[#「はっ」に傍点]と思ったが、然しその後は何ともなく、食事は無事に済んだ。食事が済むと二人は早速勘定を払って立ち上った。その時、静也は京助に気附かれずに、再び、もとの罎とすり替えた。ところが、戸外へ出ると程なく、京助は前こごみになって立ちどまり苦痛の表情をしたので、静也は、京助にすすめて、其処《そこ》に立たせ、街角へ走ってタクシーをよび、京助を家に帰らせたのである。
京助と別れて下宿に戻った静也は、可なり興奮し、そうして、意外に疲労して居ることを感じた。レストオランで京助の一挙一動を緊張してながめて居たときは、全身の筋肉がぶるぶる顫えた。そうして心臓が不規則に搏《う》ち出したような気がした。今、下宿へかえってからでも、なお胸の動悸は去らなかった。で、彼は畳の上へぐったりとして寝ころんだが、それと同時に一種の不安が彼を襲った。
果して医師がコレラと診断するであろうか。
ここまでは自分の手で首尾よく事を運んで来たが、これ以上は他人の手を待たねばならない。万が一にも、医師が誤って、正しい診断を下したならば、それこそ、あまり呑気にしては居《お》られない。と考えると、何だかじっとしては居《お》られぬ気持になり、つと立ち上って畳の上をあちらこちら歩いたが、今更、何の施すべき手段はなかった。
いくら暑い夜《よ》でも、今までは一晩も眠れぬことはなかったのに、その晩は妙に暑さが気になって、暁方に至るまで眠られなかった。然し、彼が眼をあいた時には、夏の日がかんかん照って居た。彼は朝飯をすますなり、飛び出すようにして郊外の京助の家の附近にやって来た。果して京助の家は、貼紙をして閉されてあった。近所で聞いて見ると京助は昨夜コレラを発して死に、奥さんと女中は隔離されたということであった。然し敏子と女中とが何処《どこ》に居るかを誰も知るものがなかった。
静也はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。自分の医師に対する信頼が裏切られなかったことを知って、甚だ、くすぐったい気がした。そうして、世の中が案外住みよいものであることを悟って、生に対する執着が一層深められて行った。深められて行くと同時に敏子に対する恋が頭を擡《もた》げ始めた。彼は敏子に急に逢いたくなった。逢ってもう一度、彼女の反省を乞おうと思った。彼は死んだ京助に対しては少しの同情をも感じなかった。そうして京助が死んだ以上、敏子も、この前のような、呆気ない態度には出るまいと思い、一日も早く敏子に逢いたいと思った。
けれど敏子の行方《ゆくさき》は誰も知らなかった。あんまり深入りしてたずねるのも気がひけたので、彼は敏子が帰るまで毎日訪ねて来て様子を見ることにした。
五日過ぎ、七日過ぎても敏子の家は閉されたままになって居た。逢えぬと思うと益々逢いたくなった。漸《ようや》く二週間目に、彼は敏子が帰って来て居ることを知ったが、日中、何となく恐ろしいような気がしたので、夜になるのを待ちかねて、久し振りに、馴染の深い玄関のベルのボタンを心臓の動悸を高めながら押すのであった。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「まあ、雉本さん、よく来てくれました。きっと来て下さるだろうと思って待って居たのよ」
と、敏子は自分で玄関まで出迎えて、嬉しそうな顔をして言った。彼女は幾分頬がこけて居たが、そのため却って美しさを増した。
静也は、眼を泣きはらした顔を想像して居たのであるから、彼女のこの言葉に頗《すこぶ》る面喰って、何といってよいかに迷った。
「今晩、女中は居《お》りませんの、ゆっくり遊んでいらしてもよいでしょう、御上りなさい」
こう言って彼女は、あかるく電灯に照された応接室へ、静也を引摺るようにして案内した。静也は籐椅子に腰を下し、手巾《ハンカチ》で汗をふいてから、
「時に……」
と、いいかけると、彼女はそれを遮って言った。
「御くやみを述べて下さるのでしょう。有難いですわ。でも、人間の運命というものはわからぬものですね、佐々木はあの夜、あなたと一しょにレストオランへ行って、同じものを食べながら、あなただけは、このように無事なのですもの……」
敏子が静也の顔を見つめたので、静也はあわてて、まぶしそうに眼たたきをした。敏子は更に言葉を続けた。
「佐々木はあの夜《よ》家に帰るなり、はげしい吐瀉《としゃ》を始めて三時間たたぬうちに死にましたわ。まるで夢のようねえ」
「本当にそうです」と静也ははじめて口をきくことが出来た。「あのあくる日、気になったものですから、こちらを御訪ねすると、佐々木君が死んだときいてびっくりしました。御見舞しようと思ってもあなたの行先がわからず、あれから毎日こちらへ来て見たのです。二週間とは随分長い隔離ですねえ」
「そうよ、わたし病院で予防注射を受けて居ましたの。あなたは注射をなすって?」
「いいえ、一回や二回の注射では駄目だということで、面倒ですからやめました」
敏子はそれをきくと、何思ったか、急にその眼を輝かせた。
「一回や二回ではきかなくても、十回もやれば、黴菌をのみ込んだって大丈夫だそうだわ。わたし、毎日一回|宛《ずつ》十回ほど注射して貰ったのよ。あなただって、佐々木のように死にたくはないでしょう?」
「佐々木君が死んだときいてから、急に死にたくなくなりました」
こう言って静也は意味あり気な眼付をして敏子をながめた。
「それじゃ、その以前は死にたかったの?」
静也はどうした訳か、急に顔がほてり出したので、伏目になって黙って居た。
「ね、仰《おっ》しゃいよ」
静也は太息《ためいき》をついた。
「実は、この前御目にかかってから、自殺しようと思いました」
「どうして?」
「失望して」
「何を?」
「何をってわかってるじゃありませんか」
こう言って彼は、小学生徒が先生の顔を見上げる時のようにおずおず敏子をながめた。二人の視線がぶつかった。敏子はうつむいて、黙って手巾《ハンカチ》で口を掩《おお》った。
「どうしたのですか。佐々木君が死んで悲しいのですか?」
敏子が顔をあげてじろりと静也をながめた。その眼は一種の熱情に輝いて居た。
「わたし、恥かしくなったわ」こういって又も俯向いて、声を低くして言った。「この前、あなたにあんな心にもないことを言ったので……」
静也ははっ[#「はっ」に傍点]とした。
「そ、それでは敏子さんは……」
「佐々木に済まないけれど……」
静也は熱病に罹ったような思いをして、ふらふらと立ち上って敏子の椅子に近よった。
「敏子さん、本当ですか?」と言って彼は彼女の肩に手をかけた。ふくよかな触感が、彼の全身の神経をぴりり[#「ぴりり」に傍点]と揺ぶった。
「あなた、電灯を消して下さい」と敏子は恥かしそうに言った。
静也は応接室の入口に備え附けてあるスイッチのところへよろよろ歩いて行って、パチンと捻った。
闇が二人を包んだ。
それから……接吻の音。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
恋を語るには暗い方がよい。これは誰でも知って居ることである。
あけ放たれた窓から、なまぬるい空気が動いて来る。二人は暑かった。
接吻の後……男は辛抱がなかった。
女は四時間待って下さいといった。
四時間! 何故?
その四時間は静也にとって、「永久」に思われた。
然し、その長い四時間も過ぎた。夏の夜は更けた。
すると男は暗黒の中で奇妙な声を出した。それは全くその場にふさわしからぬものであった。
「アッ!」
嘔吐《おうと》の声。
「うーん」
嘔吐の声。
「ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」女の甲高い声が暗の中に響き渡った。「よくも、よくも、あなたは佐々木を毒殺しましたね? 卑怯《ひきょう》もの! わからぬと思ったのは大間ちがい、佐々木は予防注射を何回も受けたのよ……」
「あーっ」と腹の底をしぼるような声。
嘔吐の声。
「だから、わたしはすぐ覚ったわ。けれど、佐々木は毒殺されたとは知らないで死んだのよ。死ぬ人の心を乱してはいけないと思って、わたしも御医者さんが誤診したのを幸いに黙って居たわ。だから、佐々木は予防注射をしてもきかなかったのだと思って死んで行ったわ……」
嘔吐の声。
「それに、わたしは、あなたを警察の手に渡したくなかったのよ。警察の手に渡れば、死刑になるやらならぬやらわからぬでしょう。わたしは、一日も早く自分で復讐しようと思ったのよ、だから、昨日まで予防注射をしてもらって生きた黴菌を嘗《な》めても病気にかからぬ迄になったのよ。先刻、あなたが電灯を消しに行った間に、病院から黙って持って来た試験管の、生きた黴菌を口に入れたのよ。それから接吻でしょう。わかって?」
嘔吐の声。唸《うめ》く声。
「なかなか苦しそうですねえ。苦しみなさい。今年のは毒性が強いから、四時間で発病すると医者が言ったのよ。『四時間』の意味がわかったでしょう? ね、これからあなたは、苦しみ抜いて死ぬのよ。電灯をつけましょうか。どうしてどうして、おお、見るも厭だ。あなたが死んでしまってから警察へ届けるのよ。たとい死体を解剖されたって、他殺だとは決してわからぬわよ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」
嘔吐の声。唸く声。
死を語るにも暗い方がよい。これも……誰でも知って居ることかも知れない。
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「大衆文芸」
1926(大正15)年5月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング