すって?」
「いいえ、一回や二回の注射では駄目だということで、面倒ですからやめました」
 敏子はそれをきくと、何思ったか、急にその眼を輝かせた。
「一回や二回ではきかなくても、十回もやれば、黴菌をのみ込んだって大丈夫だそうだわ。わたし、毎日一回|宛《ずつ》十回ほど注射して貰ったのよ。あなただって、佐々木のように死にたくはないでしょう?」
「佐々木君が死んだときいてから、急に死にたくなくなりました」
 こう言って静也は意味あり気な眼付をして敏子をながめた。
「それじゃ、その以前は死にたかったの?」
 静也はどうした訳か、急に顔がほてり出したので、伏目になって黙って居た。
「ね、仰《おっ》しゃいよ」
 静也は太息《ためいき》をついた。
「実は、この前御目にかかってから、自殺しようと思いました」
「どうして?」
「失望して」
「何を?」
「何をってわかってるじゃありませんか」
 こう言って彼は、小学生徒が先生の顔を見上げる時のようにおずおず敏子をながめた。二人の視線がぶつかった。敏子はうつむいて、黙って手巾《ハンカチ》で口を掩《おお》った。
「どうしたのですか。佐々木君が死んで悲しいのですか?」
 敏子が顔をあげてじろりと静也をながめた。その眼は一種の熱情に輝いて居た。
「わたし、恥かしくなったわ」こういって又も俯向いて、声を低くして言った。「この前、あなたにあんな心にもないことを言ったので……」
 静也ははっ[#「はっ」に傍点]とした。
「そ、それでは敏子さんは……」
「佐々木に済まないけれど……」
 静也は熱病に罹ったような思いをして、ふらふらと立ち上って敏子の椅子に近よった。
「敏子さん、本当ですか?」と言って彼は彼女の肩に手をかけた。ふくよかな触感が、彼の全身の神経をぴりり[#「ぴりり」に傍点]と揺ぶった。
「あなた、電灯を消して下さい」と敏子は恥かしそうに言った。
 静也は応接室の入口に備え附けてあるスイッチのところへよろよろ歩いて行って、パチンと捻った。
 闇が二人を包んだ。
 それから……接吻の音。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

 恋を語るには暗い方がよい。これは誰でも知って居ることである。
 あけ放たれた窓から、なまぬるい空気が動いて来る。二人は暑かった。
 接吻の後……男は辛抱がなかった。
 女は四時間待って下さいといった。
 四時間! 何故?
 その四時間は静也にとって、「永久」に思われた。
 然し、その長い四時間も過ぎた。夏の夜は更けた。
 すると男は暗黒の中で奇妙な声を出した。それは全くその場にふさわしからぬものであった。
「アッ!」
 嘔吐《おうと》の声。
「うーん」
 嘔吐の声。
「ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」女の甲高い声が暗の中に響き渡った。「よくも、よくも、あなたは佐々木を毒殺しましたね? 卑怯《ひきょう》もの! わからぬと思ったのは大間ちがい、佐々木は予防注射を何回も受けたのよ……」
「あーっ」と腹の底をしぼるような声。
 嘔吐の声。
「だから、わたしはすぐ覚ったわ。けれど、佐々木は毒殺されたとは知らないで死んだのよ。死ぬ人の心を乱してはいけないと思って、わたしも御医者さんが誤診したのを幸いに黙って居たわ。だから、佐々木は予防注射をしてもきかなかったのだと思って死んで行ったわ……」
 嘔吐の声。
「それに、わたしは、あなたを警察の手に渡したくなかったのよ。警察の手に渡れば、死刑になるやらならぬやらわからぬでしょう。わたしは、一日も早く自分で復讐しようと思ったのよ、だから、昨日まで予防注射をしてもらって生きた黴菌を嘗《な》めても病気にかからぬ迄になったのよ。先刻、あなたが電灯を消しに行った間に、病院から黙って持って来た試験管の、生きた黴菌を口に入れたのよ。それから接吻でしょう。わかって?」
 嘔吐の声。唸《うめ》く声。
「なかなか苦しそうですねえ。苦しみなさい。今年のは毒性が強いから、四時間で発病すると医者が言ったのよ。『四時間』の意味がわかったでしょう? ね、これからあなたは、苦しみ抜いて死ぬのよ。電灯をつけましょうか。どうしてどうして、おお、見るも厭だ。あなたが死んでしまってから警察へ届けるのよ。たとい死体を解剖されたって、他殺だとは決してわからぬわよ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」
 嘔吐の声。唸く声。
 死を語るにも暗い方がよい。これも……誰でも知って居ることかも知れない。



底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年5月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:/
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