ルによって一時の苦悶を消そうとした。だから、バアやレストオランが常になく繁昌した。彼等は歌った。然し彼等の唄は道行く人の心を寒からしめた。その昔ロンドンでペストが大流行をしたとき、棺桶屋に集った葬式の人夫や薬剤師たちが商売繁昌を祝ってうたう唄にも似て物凄い響を伝えた。
 人々を襲った共通な不安は、却って彼等の個々の苦悩を拡大した。疫病の恐怖は借金の重荷を軽減してはくれなかった。また各人の持つ公憤や私憤を除いてはくれなかった。しかのみならず公憤や私憤は疫病恐怖のために一層強められるのであった。従って暑さのために激増した犯罪はコレラ流行以後、急加速度をもって増加するのであった。

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 本篇の主人公|雉本静也《きじもとしずや》が、失恋のために自殺を決心し、又忽ちそれを翻《ひるが》えして、却って殺人を行うに至ったのも、こういう雰囲気の然らしめたところである。
 静也は、東京市内のM大学の政治科を卒業し、高等下宿の一室に巣喰いながら、国元から仕送りを受けて、一日中を、なすこともなくごろごろして暮して居るという、近代に特有な頽廃人《たいはいじん》であった。アメリカには美爪術《メニキュア》を行《や》って日を送る頽廃人が多いが、彼も、髪をときつけることと、洋服を着ることに一日の大半を費した。彼は何か纏《まと》まった職業に従事すると、三日目から顱頂骨《ろちょうこつ》の辺がずきりずきりと痛み出すので一週間と続かなかった。彼はいつも、頭というものが、彼自身よりも賢いことを知って、感心するのであった。又、彼は何をやってもすぐ倦《あ》いてしまった。時には強烈な酒や煙草を飲み耽《ふけ》ったり、或は活動写真に、或は麻雀《マージャン》に、或はクロス・ワード・パズルに乃至は又、センセーショナルな探偵小説に力を入れても見たが、いずれも長続きがしなかった。彼はこの厭《あ》き性《しょう》を自分ながら不審に思った。そうして、恐らく自分の持って生れた臆病な性質が、その原因になって居るだろうと考えるのであった。
 近代の頽廃人には二種類ある。第一の種類に属するものは、極めて大胆で、死体に湧く青蠅《あおばえ》のように物事にしつっこい。第二の種類に属するものは、極めて臆病で、糊《のり》の足らぬ切手のように執着に乏しい。静也はいう迄もなく、この第二の種類に属する頽廃人であった。
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