るようなことはつとめて避けようとする殊勝な心を持って居るから、誰も雨乞いなどに手出しをするものがなかった。従って雨は依然として降らず、人間の血液は甚《はなは》だ濃厚|粘稠《ねんちゅう》になり、喧嘩や殺人の数が激増した。犯罪を無くするには人間の血液をうすめればよいという一大原則が、某法医学者によって発見された。兎《と》に角《かく》、人々は無闇に苛々するのであった。
その時、突如として、上海《シャンハイ》に猛烈な毒性を有するコレラが発生したという報知が伝わった。コレラの報知は郭松齢《かくしょうれい》の死の報知とはちがい、内務省の役人を刺戟して、船舶検疫を厳重にすべき命令が各地へ発せられたが、医学が進めば、黴菌だって進化する筈であるから、コレラ菌も、近頃はよほどすばしこくなって検疫官の眼を眩まし、易々として長崎に上陸し、忽《たちま》ち由緒ある市中に拡がった。長崎に上陸しさえすれば、日本全国に拡がるのは、コレラ菌にとって訳のないことである。で、支那人の死ぬのに何の痛痒を感じなかった日本人も、はげしく恐怖し始めた。然し黴菌の方では人間を少しも恐怖しなかった。各府県の防疫官たちは、自分の県内へさえ侵入しなければ、ほかの県へはいくら侵入してもかまわぬという奇抜な心懸けで防疫に従事し、ことに横浜と神戸は、直接|上海《シャンハイ》から黴菌が運ばれて来るので、ある防疫官は、夫人が産気づいて居る時に出張命令を受けて、生れる子を見届けないで走り出した。
が、防疫官たちのあらゆる努力も効を奏しないで、コレラは遂《つい》に大東京に入《い》りこんだのである。いつもならば京橋あたりへ、薪炭《しんたん》を積んで来る船頭の女房が最初に罹るのであるのに、今度の流行の魁《さきがけ》となったのは、浅草六区のK館に居るTという活動弁士であった。ハロルド・ロイドの「防疫官」と題する喜劇を説明して居るとき嘔吐《おうと》を催おしたのであるが、真正のコレラであると決定した頃には、ぎっしりつまって居た観客は東京市中に散らばって、防疫の責任を持つ当局の人々は蒼くなったけれども、もはや後の祭であった。
疫病は破竹の勢で東京の各所に拡がった。毒性が極めて強かったためであろう、一回や二回の予防注射は何の効も奏せず、人々は極度に恐怖した。五十人以上の職工を有する工場は例外なく患者を出して一時閉鎖するのやむなきに至った。暑さ
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