のものを見て、パリス・グリーンであろうと言った。果して、それから間もなく、病人の容体は急に悪くなり、遂に夜明け方に死んだが、医師は砒素中毒による死亡であると診断した。
「こういう事情ですから、警察から、検屍官が派遣されることになりました」と、ブライアン氏は言った。「そして、間もなく、その地方の開業医で、警察医を兼ねていたスチューワートという人が死体解剖を命ぜられました。解剖の結果、死体の胃の内容物に、多量の砒素化合物があるとわかったので、事件は裁判所に廻され、予審判事が出張して、ソムマース家を委《くわ》しく取調べることになりました」
予審判事の一行は、家人を一々訊問し、家の隅々を捜索した結果、牛小舎の装具置場の高い棚に、パリス・グリーンの入ったボール箱を見つけた。その箱は破りあけられて、内容が少しばかり取り出され、粉末の一部分は地面へこぼれていた。しかもその箱のあけられたのは、つい近頃であるとわかった。その時分はもう収穫時もとくの昔に過ぎ、春以来、パリス・グリーンを使用する必要はなくなっていた。それ故、使用された粉末は、当然牛乳罐の中へ入れられたものに違いないと結論された。
附近に住む小作共は、もとよりパリス・グリーンが、牛小舎にあることを知っている訳もなく、また牛小舎へ自由に出入りすることを許されてもいなかったから、嫌疑は当然家内のものにかかった。しかし家内のもののうち、何人《なんぴと》が殺人を敢て行う程の強い動機を持っているであろうか? 幸に毒の入れてあったボール箱の上には塵埃が溜っていて、指紋がはっきり附いていたから、直ちに写真に撮影され、それと家内の人々の指紋をとって比較して見ることになった。ところが意外にも、若夫婦の指紋と、看護婦の指紋との都合三種がボール箱についていたのである。しかし、三人が共謀して行ったこととは考えられぬから、三人のうちの誰かに違いないと推定して、三人にはボール箱の指紋のことを告げないで、別々に色々訊問して見たが、少しも要領を得なかった。
故人は徳の高い人であったから、人々は切に哀悼の意を表し、その忌わしい事情は、附近一帯の噂の種となり、人々は勝手に色々の説を建てた。若夫婦の結婚の際に於ける若夫婦と父親との衝突、看護婦とハリーとエドナの三角関係などからして、色々な解釈が試みられた。あるものはハリーが結婚以来父親を恨んでいたから、その為に父を毒殺したのであろうと想像し、あるものは故人が金持ちであったから、看護婦が後継者の嫁になるために、老人を殺してエドナに嫌疑をかけるよう仕組んだ行為であると想像し、またあるものは、エドナがかねて舅《しゅうと》を恨んでいたがためだと想像した。が、予審裁判の結果、ミルトン・ソムマースは砒素剤によって毒殺され、犯人はエドナであると決定されたのである。
世評はエドナに取って極めて不利益であった。人々は彼女が虚栄心を満すために、早く老人を亡きものにして財産を良人のものとしようとして行った仕業であると解釈した。且《かつ》、彼女はそのとき妊娠中であったが、獄中で子を生んでは、生れた子に焼印を捺《お》すようなものであるから、それやこれやで彼女は少なからず煩悶した。
「このソムマース若夫人の弁護士から、私に事件鑑定の依頼があったのです」と、ブライアン氏は語り続けた。「弁護士は、夫人の無罪を信じ、老人の死体の医学的検査に、根本的の誤謬があるにちがいないと見たのです。私も一伍一什《いちぶしじゅう》をきいて、出発点はやはり胃の内容物の化学的検査にあると思いました。もしパリス・グリーンが牛乳に混ぜられてから熱せられたならば、表面に緑色の泡が立たねばなりません。ですから、誰の眼にもつき易いので、そんな危険なことをする者はない筈です。そこに何か捜索上の手落ちがあるだろうと思って、鑑定を引き受け、胃の内容物の再鑑定を願い出て、許可されたら、なお念のために、専門の化学者二人のところへ、別々に分析を依頼するよう、手筈をきめました」
弁護士の要求はきき入れられ、胃の内容物はブライアン氏の手許に届けられた。氏は早速、砒素鏡検出法を始め、その他の方法によって分析に取りかかったが、大量は愚か、砒素の痕跡さえも発見されなかった。
「いや、実に、その時は驚きましたよ」と氏は言葉を強めて言った。「何しろ警察医は多量の砒素が含まれていたと証言したのですからね。又主治医も主治医です。砒素を嚥《の》んでもいないのに、砒素中毒で死んだと診断したのですから。二人の化学者の分析の結果も同様でして、法廷でその証言が述べられると、傍聴人の感情は急転して、夫人に対する同情に変ってしまいました。陪審官はたった二十分間で決議して、ソムマース夫人の無罪を宣告しましたよ」
こうして、医師の誤まった鑑定のため、無辜《むこ》の人が危うく殺人罪に問われようとしたのである。
× × ×
「それにしてもどうしてその緑色の物質が牛乳罐の中に入っていたのでしょう?」と、私は、ブライアン氏が語り終ってから、暫らくして訊ねた。
「それが即ち第二の問題ですよ。私はただ砒素中毒かどうかを鑑定すればよかったのですからそれ以上、捜索も致しませぬでしたが、これが、あなたの好きなオルチー夫人の探偵小説に出て来る『隅の老人』であったなら、すべからく、解説なかるべからずですね。ははははは」[#「」」は底本では「』」]と氏は愉快げに笑った。
「無論そのパリス・グリーンは牛乳をあけたあとで罐の中へ入れたのでしょうから、そこに最も肝要な問題がある訳ですね?」と私は、氏の解釈をきこうと思って訊ねた。
「そうですそうです。嫌疑は当然その看護婦にかからねばなりません。『隅の老人』ならば、主治医と看護婦とを共犯にするかもしれませんよ。何しろ看護婦の指紋が、パリス・グリーンの箱に発見されたというのですから」
「どうもこの事件には不可解な点が多いようです」と私は言った。「看護婦ばかりでなく、ソムマース夫妻の指紋も、ボール箱についていたというのですからね。この事件の蔭には恐らく複雑した事情が潜んでおりましょう」
「無論そうでしょう。ですが、それは探偵小説家に考えて貰うことにしましょう。ソムマース夫婦は今では楽しい家庭を作って、平和に暮しているそうです。問題の看護婦は、何でもその後ニューヨークの生活が厭になって、田舎へ引き籠ったとかききました。しかし一ばん貧乏|籖《くじ》をひいたのは、警察医のスチューワート氏でした。誤まった鑑定をしたために、その後すっかり評判が悪くなって、門前|雀羅《じゃくら》を張るようになったそうです。いやだいぶ表て通りも静かになって来ました。これから、あついコーヒーでも一杯のみましょうか……」
[#地付き](初出不明)
底本:「探偵クラブ 人工心臓」国書刊行会
1994(平成6)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「趣味の探偵団」黎明社
1925(大正14)年11月28日初版発行
入力:川山隆
校正:門田裕志
2007年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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