て注射を受けて、今日がおしまいであるというのに心は段々重たくなり気はいよいよ荒くなるようです。一度私の血を取って調べてくれませんか?」
「血をとって何を調べるのですか」
「もしや私の身体に犬の血がめぐって居やしないかと思うのです」
「馬鹿な!」
「いや、私は真剣です。どうか調べて下さい」
医師は、始め私が冗談を云って居るのだと思ったらしかったが、私の顔に真実の色があらわれて居るのを見て、
「よろしい、調べてあげましょう。狂犬に噛まれた人の血が、犬の血と同じ性質を帯びて来るとしたなら、それこそ学界の一大発見ですから」
といい乍ら、腕の静脈から二|瓦《グラム》ばかりの血を試験管にとった。
あくる日を待ちかねて私は研究所をたずねた。医師は私の顔を見るなり、極めて真面目な顔をして、
「やって来ましたね。とうとう一大発見をしましたよ。さあ先ずこちらへ……」
私は皆まで聞かずに、呆気《あっけ》にとられた医師を残して飛び出してしまった。万事休す。私の血管にはまがいもなく犬の血がめぐって居るのだ。それが今科学的に証明された訳である。犬神の家のものにはすべて、犬の血がめぐって居るのか、それとも、私が狂犬に噛まれてから、犬の血に変化したのかもとよりわかろう筈はないが、自分の身体に犬の血がめぐって居る! こう思うだけでも、大ていの人の精神を異常ならしめるに十分である。今、こうして、多少、精神が落ついて見れば、あの時医師が大発見をしたと言ったのは、別の意味であったかも知れぬが、その時の私に、どうして、あの実験室の中へはいって、自分の血の反応を見る気が起ろう。私はその時からひたすらに、如何《いか》にもして自分の汚れた血を、人間の血に浄《きよ》めもどしたいと思った。然し、医者でない私に何の施しようがあろう。私の講じ得《う》る唯一の手段は、酒の量を増すことであった。
私は痛飲した。家に居ても、外出先でも、たえず酒につかって居た。始めの間は、酒を多量に飲むと、不思議にも私の不安は一掃され、と同時に、私の血が浄められて行くように思った。ところが日を経《ふ》るに従って、酒も最早《もはや》十分その効力をあらわすことが出来なかった。そして酒の効力が無くなって、最早私の血を浄める手段が無いと思うと、私の血は、前よりも倍の速度で汚れて行くかのように思われた。
彼女は相も変らず灰をなめ泥を喰った。近ごろになって彼女はなまぐさい汁のかかった泥を一層好んで喰うようになった。やっぱり妊娠ではない犬の祟だ。いや、彼女自身が犬なのだ。彼女は私の身を滅ぼすために魔界から遣わされた犬だ。こう思うと、私はだんだん、彼女に近づくことさえ怖くなり、後には彼女の存在をも呪うようになった。彼女は相も変らず茶の間に閉じこもり、「金毘羅大神」の額の下で、火鉢のそばで針仕事をして居た。
ある晩私が、無闇に酒をのみ、その夜に限って常になく酔って帰ると、彼女は白い布《きれ》で何か作って居たが、私が傍へ行くと、つと、それを後ろにかくした。
「何だい、それは?」
こう言って、私は彼女にとびかかり乍ら、そのものを彼女の手から奪い取り、一目見るなり思わずも落してしまった。それは玩具《おもちゃ》の犬であった。
私はぎょっとした。
「なぜこんなものを作るのだ!」
「私近頃、犬の玩具が好きになったのよ。それも無理はないわ、私は戌《いぬ》年の生れだもの。あらなぜそんな怖い顔するの?」
こう言い乍ら、彼女は私の機嫌を取るために例の如く私にしがみついて、私の頬をなめた。その時私は常になくぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。というのは、彼女の舌が犬の舌のようにざらざらして居たからである。恐らく彼女は、つい今しがた迄、泥を食べて居たために、舌がざらついたのであろうが、その時はもうそんなことを考える暇はなく、ただもう彼女が犬だという思いで一ぱいになった。
力をこめて、私が彼女を引き離すと、彼女はにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったが、その時彼女の口元が三|寸《ずん》ほど前へのびて来て、犬そっくりの口元になった。
火鉢《ひばち》に突き立ててあった裁縫用の鏝《こて》をつかむが早いか、私は力をこめて、彼女の額に打ち下した。その途端、血のようなものが、ぱっと飛び出したようであるが、不思議にも血は流れ出ず、彼女が一言もいわずに仰向きにどたりとたおれると、始めて額の疵《きず》からどす黒い血が畳の上へ流れ出た。
はっと我にかえって、よく見ると彼女の顔はいつもの彼女の顔である。死んだ人間の顔に外ならない。私は私の早まった行為をくやむ傍《かたわ》ら、不思議にも安心に似たような気分が湧き、同時にまた幾分か理性が働きかけたようにも思った。
私は彼女の死体を風呂桶の中へ運んで蓋《ふた》をし、それから座敷兼茶の間へ戻ると、驚いたことに、彼女の額から出た血溜りが、丁度《ちょうど》紅い絵具で畳の上にわざわざ描いたかのように、一疋の吠えて居る犬の形を作って居た。これを見た私の全身から、たらたらと冷汗の流れ出るのを覚えた。早速バケツに水を汲んで来て、先ずその呪うべき犬の形を拭き取り、それからあたりを見まわしたが、意外にも血溜りの外には、血のとばっちりは一つもなく、畳の上にも、障子にも襖《ふすま》にも、血痕らしいものはさらに見つからなかった。
それから私は三日に亘《わた》って彼女の死体を切断し、風呂場の竈《かまど》で焼き払った。夜になると何処からともなく犬が集まって来ては頻《しき》りに吠えたが、幸にして私が死体を片づけてしまう迄は誰にも見とがめられずに済んだ。私は竈の中の灰までも掻《か》き集めて、それを裏の畑にすっかりばらまいてしまい、畳や風呂桶は幾度も幾度も雑巾をかけて、今はもう誰が取り調べに来ても大丈夫だと思った。
果して四日目の朝、三人の刑事がやって来て、令状を示し乍ら、家宅捜索をさせて貰いたいと言った。多分犬の吠えるのを、不審に思った隣人たちの噂でも聞伝えて、取り調べに来たのであろう。私は、自分ながら感心するほど沈着な態度で、三人を迎え入れ、同居して居た女は先日ぶらりと出かけたまま帰って来ない旨《むね》を告げた。刑事たちは、私に色々訊問するかと思いの外、いきなり風呂場の竈の灰を調べに行ったけれど、もとより証拠の見つかろう筈はなかった。そこで三人はにやにや笑って何事か囁き合い乍ら、今度は茶の間の畳の上を廓大鏡を出して、検査したが、やはり、彼等の努力は空《くう》に帰した。
突然、私は何だかこう胸を圧迫されるように感じた。いわば軽い嘔気《はきけ》のような気分が起ったので、私は彼等から眼を離して、火鉢の前に坐り、手持無沙汰に灰を掻きならした。
ふと気がついて見ると、今迄ぼそぼそ話しをして居た三人の声が聞えなくなって、あたりは気味の悪いほど静かになったので、何事が起ったのかと顔をあげて見ると、三人は、「金毘羅大神」と書いた額の真下に立ちながら、恰《あだか》も飛行機の宙返りでも見て居るかのように、額の一点を見つめて居た。
私も立ち上って三人の傍《そば》へ近より乍ら、額の文字をながめた。
ああその時の私の驚き! 私はまるで全身の神経が一本一本抜け去ったかのように覚えた。「金毘羅大神」の大の字が、不思議にも犬の字に変って、而《しか》も大の字を犬の字たらしめて居る「丶」こそは、まがう方なき、どす黒い血痕ではないか。思えば、あの時、私が彼女の額に鏝を打ち下した途端に、たった一滴だけ血が飛んで大の字の傍らに附着したのを、私はうっかり見逃がしてしまったのである。
私はうーんと一声うめいて、その場に気絶した。
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「講談倶楽部」
1925(大正14)年8月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング