観念は、消えるどころか益々旺盛になって来た。
 私はとうとう会社をやめてしまった。然し近頃は彼女と日夜一しょに居ることが、何となく苦しいように思えるので、午前に注射を受けに行くと、午後には散歩に出かけたが、彼女は私について来たいとも言わなかった。ある夜私は、晩飯を日本橋の某料亭ですまし、一杯機嫌でいい気持になったので、彼女をびっくりさせてやろうと、音のせぬように入口の格子戸をあけ家の中へあがって、ぬき足で、茶の間の入口まで来ると、彼女をおどしてやろうと思った私の全身は氷を浴びせかけられたかのように其《そ》の場に立ちすくんだ。
 彼女は、丁度《ちょうど》、犬がやるように、火鉢の中に頭を突き込んで、灰をべろべろ[#「べろべろ」に傍点]嘗めて居たのである。
 私は恐ろしさに、踵《きびす》を返して逃げ出そうとしたが、その時彼女は顔をあげて、私の方を見ながら別に驚いた様子もなく、手巾《ハンケチ》で口を拭って言った。
「まあ、いつ帰って来たの? わたし近ごろ灰や泥がたべたくて仕様がないのよ。妊娠したんだわ」
 私はこの言葉をきいてはっ[#「はっ」に傍点]と思った。なるほど、妊娠の際には所謂《いわゆる》異嗜《いし》が起って、平素口にしないものを食べたがることがある。して見ると、先日、私の血を喜んで吸ったのもやはり妊娠のためだったのであろう。が、此《この》安心もほんの一時であって、次の瞬間には更に更に恐ろしい感じが、私の心の中に漲《みなぎ》った。彼女が果して妊娠したとすれば、それこそ、私たちの「結婚」の動かすべからざる証拠であって、愈々《いよいよ》、暗い運命の手は、更に一枚の帷《とばり》を増して、私たちを包んだことになるではないか? こう思ってふと鴨居《かもい》を見ると其処《そこ》には「金毘羅大神」の文字が、ぼんやりとした周囲の光から抜け出したように、鮮かに並んで居た。
 私の心は益々暗くなった。彼女が妊娠したというのは果して本当であろうか。彼女もまた私同様に犬神の祟を受けて居るのではあるまいか。血を嘗め灰を嘗めるのは犬神の祟だといえば云い得《う》るではないか。私はもうたまらないような気がした。私は、いっそ、彼女を噛み殺して自分も死んでしまおうかと思う程、私の心はいらいらして来たのである。
 あくる日、私は最後の予防注射を受け乍ら、思い切って、医師にたずねた。
「先生、私は、こうして注射を受けて、今日がおしまいであるというのに心は段々重たくなり気はいよいよ荒くなるようです。一度私の血を取って調べてくれませんか?」
「血をとって何を調べるのですか」
「もしや私の身体に犬の血がめぐって居やしないかと思うのです」
「馬鹿な!」
「いや、私は真剣です。どうか調べて下さい」
 医師は、始め私が冗談を云って居るのだと思ったらしかったが、私の顔に真実の色があらわれて居るのを見て、
「よろしい、調べてあげましょう。狂犬に噛まれた人の血が、犬の血と同じ性質を帯びて来るとしたなら、それこそ学界の一大発見ですから」
 といい乍ら、腕の静脈から二|瓦《グラム》ばかりの血を試験管にとった。
 あくる日を待ちかねて私は研究所をたずねた。医師は私の顔を見るなり、極めて真面目な顔をして、
「やって来ましたね。とうとう一大発見をしましたよ。さあ先ずこちらへ……」
 私は皆まで聞かずに、呆気《あっけ》にとられた医師を残して飛び出してしまった。万事休す。私の血管にはまがいもなく犬の血がめぐって居るのだ。それが今科学的に証明された訳である。犬神の家のものにはすべて、犬の血がめぐって居るのか、それとも、私が狂犬に噛まれてから、犬の血に変化したのかもとよりわかろう筈はないが、自分の身体に犬の血がめぐって居る! こう思うだけでも、大ていの人の精神を異常ならしめるに十分である。今、こうして、多少、精神が落ついて見れば、あの時医師が大発見をしたと言ったのは、別の意味であったかも知れぬが、その時の私に、どうして、あの実験室の中へはいって、自分の血の反応を見る気が起ろう。私はその時からひたすらに、如何《いか》にもして自分の汚れた血を、人間の血に浄《きよ》めもどしたいと思った。然し、医者でない私に何の施しようがあろう。私の講じ得《う》る唯一の手段は、酒の量を増すことであった。
 私は痛飲した。家に居ても、外出先でも、たえず酒につかって居た。始めの間は、酒を多量に飲むと、不思議にも私の不安は一掃され、と同時に、私の血が浄められて行くように思った。ところが日を経《ふ》るに従って、酒も最早《もはや》十分その効力をあらわすことが出来なかった。そして酒の効力が無くなって、最早私の血を浄める手段が無いと思うと、私の血は、前よりも倍の速度で汚れて行くかのように思われた。
 彼女は相も変らず灰をなめ泥を喰った。近
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