観念は、消えるどころか益々旺盛になって来た。
私はとうとう会社をやめてしまった。然し近頃は彼女と日夜一しょに居ることが、何となく苦しいように思えるので、午前に注射を受けに行くと、午後には散歩に出かけたが、彼女は私について来たいとも言わなかった。ある夜私は、晩飯を日本橋の某料亭ですまし、一杯機嫌でいい気持になったので、彼女をびっくりさせてやろうと、音のせぬように入口の格子戸をあけ家の中へあがって、ぬき足で、茶の間の入口まで来ると、彼女をおどしてやろうと思った私の全身は氷を浴びせかけられたかのように其《そ》の場に立ちすくんだ。
彼女は、丁度《ちょうど》、犬がやるように、火鉢の中に頭を突き込んで、灰をべろべろ[#「べろべろ」に傍点]嘗めて居たのである。
私は恐ろしさに、踵《きびす》を返して逃げ出そうとしたが、その時彼女は顔をあげて、私の方を見ながら別に驚いた様子もなく、手巾《ハンケチ》で口を拭って言った。
「まあ、いつ帰って来たの? わたし近ごろ灰や泥がたべたくて仕様がないのよ。妊娠したんだわ」
私はこの言葉をきいてはっ[#「はっ」に傍点]と思った。なるほど、妊娠の際には所謂《いわゆる》異嗜《いし》が起って、平素口にしないものを食べたがることがある。して見ると、先日、私の血を喜んで吸ったのもやはり妊娠のためだったのであろう。が、此《この》安心もほんの一時であって、次の瞬間には更に更に恐ろしい感じが、私の心の中に漲《みなぎ》った。彼女が果して妊娠したとすれば、それこそ、私たちの「結婚」の動かすべからざる証拠であって、愈々《いよいよ》、暗い運命の手は、更に一枚の帷《とばり》を増して、私たちを包んだことになるではないか? こう思ってふと鴨居《かもい》を見ると其処《そこ》には「金毘羅大神」の文字が、ぼんやりとした周囲の光から抜け出したように、鮮かに並んで居た。
私の心は益々暗くなった。彼女が妊娠したというのは果して本当であろうか。彼女もまた私同様に犬神の祟を受けて居るのではあるまいか。血を嘗め灰を嘗めるのは犬神の祟だといえば云い得《う》るではないか。私はもうたまらないような気がした。私は、いっそ、彼女を噛み殺して自分も死んでしまおうかと思う程、私の心はいらいらして来たのである。
あくる日、私は最後の予防注射を受け乍ら、思い切って、医師にたずねた。
「先生、私は、こうし
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング