で行った姿は、今もまだ私の眼の前にちらつきます。ああ、恐ろしいことです。恐ろしいことです。
 すると、神様は私たちの願いをお叶《かな》え下さって、私は十七歳になっても二十歳になっても月のものを見ませんでした。二十五歳になっても、やはり変りはありませんでしたから、もう母も大丈夫だと安心したことでしょう。その年の夏に私一人をこの世に残して死んで行きました。臨終に至るまで、母は私に向って、決してお前は嫁いではならぬ、嫁げば子を生むときに死んでしまう、下山家は、お前が死ぬと共に断絶する訳だから、せめて百五十歳までお前は生きのびてくれと申しました。
 なにゆえに母が百五十歳までと申したかを私は存じません。とにかく私は母の遺訓をかたく守って、毎日神様に御祈りをして今日に至りました。少しの傷もせぬように、一時の油断もなく暮して来ました。そうして、幸に一度も病気をせず、又、月のものを見ないですんだのであります。私は宝暦×年の今月今日に生れましたから、今日で丁度、満百五十歳になるので御座います。
 こういって老婦人は、さびしそうな薄笑いをにッとうかべながら、じっと私の顔を見つめました。私は再びぎょッとしました。満百五十歳という言葉にももちろん驚きましたが、それよりも気味の悪いのは、老婦人の眼の光りでありました。
 ――ところが、と、隠居さんは続けました。その眼が一層輝いたので、私は何となく身体がぞくぞくして来ました。――今朝、突然、私の月のものを見たので御座います。先生、私の驚きをお察し下さい。私はもう死なねばなりません。けれども先生、どうした訳か、月のものが初まってから、昨日までよりも一層、この世に未練が出来て来ました。私は死にたくないので御座います。先生、どうか、出来ることなら、私を、死ぬことから救って下さいませ。御願いで御座います。
 百五十歳の老婦人はこういって、私のそばに、にじり寄って来ました。いままでのその緊張して居た態度が急に崩れて来ました。私はそのとき、何ともいえぬ不快な感じを起こしましたが、漸《ようや》く冷静な心になっていいました。
 ――決して、御心配なさるにはおよびません。あなたの家に伝わる病気は血友病と名《なづ》けるものでありますが、この病気はその家系のうち、男子のみが罹《かか》って、女子には決して起こらないのです。たといあなたの十五六歳のときに月のものがはじまっても、あなたは決して、それで死ぬことはなかったのです。あなたの信仰なさる神様は、女には月のものがあるからという御つもりで、女を血友病には罹らせぬように工夫して下さったのです。ですから、たとい、今日、月のものがはじまりましても、やがて血は必ずとまります。あなたは、それで、死のうと思ったとて実は死ねないのです。
 私の話しつつある間、老婦人の顔に、一種の獣性を帯《お》んだ表情がうかびましたが、だんだんそれが露骨になって行くのを私は見のがさなかったのです。そうして、私が語り終るなり、あッという間もなく、百五十歳の隠居さんはその皺くちゃの両腕をのばして、私の頸《くび》にいだきつきました。
 あまりのことに私はわれを忘れて老婦人をはげしくつきのけました。
 数秒の後、気がついて見ると、私の前に、老婦人いや、老婦人の死体が、干瓢《かんぴょう》のように見苦しく横たわって居《お》りました。

 こう語って村尾氏は一息つき、ハンカチを取り出して頸筋を拭いてから、更に続けました。
「まったく、思いもよらぬ経験をしましたよ。何のために、老婦人が私にとびかかって来たのか、もとよりわかりませんが、あの恐ろしさは一生涯忘れることが出来ません。老婦人は月経がはじまったといいますけれど、或はほかの病気だったかも知れません。何しろ、百五十歳というのですから。けれども、世の中には、とても想像のつかぬ事実があることを、私たちは否定してならぬと思います。然し、いずれにしても、精神の緊張がゆるむと人間は一たまりもなく崩れるものだということが、これによってはっきりとわかりました。そうして、もし私の言葉が、老婦人の精神の緊張をゆるめたとすれば私が間接にあのお婆さんを殺したことになるかも知れません……」



底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1927(昭和2)年7月17日号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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