、死に瀕している人の頼みを拒絶するのは残酷であると考えて、その言葉の意味を告げようと思った。
「私は今回の事件の経過を観察したとき、尋常一様の暗殺者の仕業ではないと思いました。犯罪が極めて無雑作に行われておりながら、犯人の見つからぬのは、その無雑作が、深く計画された無雑作であると思いました。即ち犯人は犯罪芸術家としての天才です。天才の作品に向っては、批評家たる探偵は、ただ驚嘆の言葉を発するより外ありません」
「でも、あなたは、この事件に大きな手ぬかりがあるというではありませんか?」
「そうです。しかし、その言葉は、事件を批評した言葉ではなくて、むしろ事件に驚嘆した言葉です」
総監は不審そうな顔をした。
「こう申すと、或はおわかりにならぬかも知れません。つまり当夜の事情を再演した結果、犯人の天才に驚いて…………」
「早くその手ぬかりをきかせて下さい。苦しくなったから…………」
「つまり、私はこの位完全な事件でありながら、犯人の知れぬのは大きな手ぬかりだと申したのです…………」
総監はにこりと笑って、さもさも安心したというような顔付をして眼を塞《ふさ》いだ。その時、松島氏はその顔色を見てぎょっとした。即ち、今始めて総監が自分を呼び寄せた真意を見抜いてぎょっとしたのである。松島氏は驚きのため息づまるように感じた。総監が自分の言葉を聞きたがったのは、責任観念のみの然《しか》らしめたところでなく、もっと大きな動機があったのだと知って松島氏は恐怖に近い感じを起した。
見ると、総監の唇は暗紫色を帯び、顔に苦悶の表情があらわれたので、松島氏は隣室に退いた人々を呼びに行った。夫人を先頭に主治医と看護婦とがあたふたかけつけ、主治医は取り敢えずカンフル注射を、三回総監の腕に行った。
総監は眼を開いたが、あたりの人の存在に気づかぬものの如く、松島氏を見つめて言った。
「しかし、しかし、犯人の……手ぬかりとは……何ですか?」
それは、やっと聞きとれるか、とれぬ位の細い声であった。松島氏はこの質問に答えることを躊躇して、主治医の顔を見た。脈搏を検《み》ていた主治医は夫人に向って、もう絶望だという合図をした。松島氏はそれを見て、一層返事することを苦痛に思った。しかし、総監はその言葉の意味をきかねば死に切れぬのである。いかにも、その言葉の意味をきかねば死に切れぬということを松島氏はたった今本当に知ったのであるから、たとえそれがどんな恐ろしい意味であっても、総監にだけは聞かせねばならぬと思った。そこで松島氏は総監の耳もとに口を寄せ、ほかの人々には聞えぬくらいの声で囁いた。
「たった一つの手ぬかりというのは、犯人が、臨終の床へ、探偵を呼び寄せて、手ぬかりの意味をたずねたことです…………」
五
「総監は私の言葉が終るか終らぬに絶命しました」と、松島氏は語った。「もはや、申し上げるまでもなく、D外務大臣暗殺の犯人は、I警視総監その人だったのです。私がこの真犯人を知ったのは、総監が第一の言葉の意味をきいて、安心して眼を閉じた瞬間でした。
私がこの事件を研究したとき、犯人はよほどの天才だと思いました。従来の暗殺の歴史を考えて見ましても、犯人が知れぬという事件はさほど沢山はありません。しかも警視庁であれ程熱心に捜索しても駄目だったのは、もしや、当夜招待された顕官の一人が犯人ではないかという疑いだけは持ち得ましたが、その疑いだけが何の役に立ちましょう。そこで私は、天才的犯罪者に向っては、芸術批評家として行動せねばならぬと思いました。一般に芸術家は、すべての批評家の言葉を非常に気にするものです。ですから私は、外相暗殺という芸術的作品に向って、批評を試みようと思ったのです。そこで私は、その批評の言葉を犯人の耳に入れんがために、首相始め多くの人々に官邸へ来てもらって、ああいう芝居をしたのです。あの芝居には何の深い意味はなく、ただ私の批評の言葉を一層切実ならしめるためだったのです。ああすれば、たとえ犯人がその場に居なくても、いつかは犯人に私の批評の言葉が伝えられるにちがいないと思いました。で、私は故意《わざ》と事件に大きな手ぬかりがあると申しました。そうすれば、芸術家たる犯人は、きっと、私自身から、その意味をききたがるにちがいないと思いました。それがために犯人が私に接近して来れば、やがてそれが犯人の手ぬかりになると思って第二の言葉を発したのです。あの芝居を行ったときには、無論、誰が犯人であるかを知る由もなく、ああして置いて、その後、犯人が私に接近して来る時節を辛抱強く待っていたのです。果して私の予想は当りました。しかし、犯人が総監自身であろうとは全く意外でした。外相夫人にたずねても、総監自身を疑うような動機は一つも見当らなかったのです。I警視総監の遺書
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