いて、彼女の一人娘に手篤い看護を受けていた。
母一人、子一人のことであるから、娘は必死になって介抱に努めたが、薬石効なく遂に母親は悲しき息を引き取った。
すると娘の悲嘆は絶大であった。彼女はもう二十歳過ぎていたから相当に理性も発達していたのであるが、何しろ杖とも柱とも頼っていた母に死なれたことであるから、絶望のあまり取り乱してしまったのである。彼女は医師や親戚の者の前をも構わず泣き叫び、ただ泣いてだけいるならよいが後にはまるで発狂したように部屋の中を走り廻り、狂いたけって人々の制するのもものかは今一時間も過ぎたらほんとうに気が違ってしまいはせぬかと危まれて来た。と言って、最早手出しをするものさえなく、人々は只もう黙って彼女の取り乱した姿を眺めているより他はなかった。
突然。
「ピシリ!」
という音が部屋の中で響いた。それは恰度眼に見えぬ何者かが、彼女の耳を叩いたかのように思われた。
すると今迄狂い叫んでいた娘は急に静かになり、まるで狂気から回復したかのように真面目な姿になり、隣室にある母の死体の側に近寄って、人々と懇《ねんご》ろに葬式の相談などをするのであった。
無形の蜂
ヒステリーの女の話である。
ある若いヒステリーの女が、寝椅子に腰かけていた。それは夏のことであって、部屋の隅に煽風機がかけられてあったが、静かな空気の中で、まるで生き物であるかのような音を立てていた。やがてドアーを叩く音が聞え彼女の許可の言葉と共に這入《はい》って来たのは、毎日来る若い医師であった。
医師の姿を見るなり、突然彼女は立ち上って、
「ああ先生大へんです、あんな大きな蜂が、あれあれ私を……」と言って逃げ廻ろうとするので医師は驚いて、
「心配しなくともよろしい、蜂は窓から追い出してしまえばよろしい」
「いえ、いえ、いけません、いけません、あれあれ、私の眼の方へ……あ痛ッ」
と言って彼女は両手で顔を押えてその場に蹲踞《うずくま》ってしまった。
あまりの事に医師はあきれて暫らく、為《な》すところを知らなかったが、やがて彼女を抱き起してその手を除くと、驚いたことに右の下瞼が杏《あんず》の大きさに腫れ上っていた。それは恰度生きた蜂に刺されたのと少しも違わず激しい痛みを伴い、強い潮紅を呈していた。
予言の不思議
「流竄《るざん》中のカイゼル」の著者ベン
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