ら五町ほど隔ったところにありますが、途中に十丈ほどの険阻な断崖《がけ》がありますから、入学して一ヶ月ほどは女中のお清《せい》に送り迎えさせましたが、後には義夫一人で往復するようになりました。私が夕方、往診から帰ると、馬蹄の音をきいて、義夫は嬉しそうに門《かど》まで出迎えてくれます。その無邪気な顔を見るにつけても、妻の無情を思い比べて悲しい気持にならずにはおられませんでした。
ある日のことです。それは梅雨《つゆ》時の、陰鬱な曇り日でありました。「どんよりと曇れる空を見て居しに人を殺したくなりにけるかな」と啄木の歌ったような、いやに重くるしい気分を誘う日でして、山々に垂れかかった厚い黒雲が、悪魔の吐き出した毒気かと思はれ、一種の不気味さが空気一ぱいに漂っておりました。その日も私は、かなり遠くまで往診して午後五時頃非常に疲れて帰って来ると、いつも門まで迎えに出る義夫の姿が見えませんので、どうしたのかと不審に思いながらも、下男が昨日から、母親の病気見舞のために実家へ行って留守だったので、自分で馬を廐《うまや》につなぎ、それから家の中にはいると妻は走り出て来て、ぷんぷん怒って言いました。
「あなた、義夫は横着じゃありませんか、遊びに行ったきり、まだ帰りませんよ」
「どうしたのだろう、学校に用事でも出来たのでないかしら」
学校に用事のある訳はないと知りながらも、なるべく、妻を怒らすまいと、土間に立ったまま私はやさしく申しました。
「そんなことがあるものですか。わたしの顔を見ともないから、わざと遅く帰るつもりなんですよ」
めったに遊びに行くことのない子でしたから、私の内心は言うに言われぬ不安を覚えましたが、妻の機嫌を損じては悪いと思いましたから、「お清にでも、その辺へ見にやってくれないか」と申しました。
「お清は加藤と使いに出て居《お》りませんよ」と、にべ[#「にべ」に傍点]もない返事です。加藤というのは看護婦の名です。
その時、門の方に、大勢の人声がしましたので、私は怖しい予感のために、はっと立ちすくみながら、思わず妻と顔を見合せました。妻の眼は火のように輝きました。
「先生、坊ちゃんが……」
戸外に走り出るなり、私の顔を見て、村の男が叫びました。泥にまみれた学校服の義夫が、戸板に載せられて、四五人の村人に運ばれて来たのです。
「……可哀相に、崖の下へ落ちていたんですよ。まだ息はあるようだから、早く手当を……」
それから私がどういう行動を取ったかは、今、はっきり思い出すことが出来ません。とにかく、数分の後、義夫は診察室の一隅にあるベッドの上に仰向きに寝かされ、枕頭《まくらもと》に私と妻とが立って創口《きずぐち》を検査しました。村人の帰った後のこととて、あたりは森《しん》として、カチカチという時計の音が胸を抉《えぐ》るように響き渡りました。義夫は俯向《うつむ》きに崖下の岩にぶつかったと見え、右胸前部の肋骨が三四本折れ、拳を二つ重ねた程の大さの、血に塗れた凹みが出来ておりました。義夫は眼をかたくつぶったまま、極めて浅い呼吸を続けておりました。脈搏は殆ど触れかねるくらいでしたが、でも、聴診すると、心臓は明かに鼓動を繰返しておりました。
私は、機械のように立ち上り、中央のガラス製のテーブルの上に置かれた、強心剤即ちカンフルの罎と注射器とを取り上げました。「あなた、何をなさる? 義夫を苦しめるつもり?」と妻は声顫わせて私を遮りました。
恐らく私はその時一寸躊躇したことでしょう。又恐らく私の理性は、平素、安死術を主張しながら我子の苦痛に対しては同情しないのかと、私の耳許で囁いたことでしょう。しかし、いずれにしても、私の十年来の主義はその瞬間に微塵に砕かれました。人間には、理性による行為の外に反射的の行為があります。今、その反射的行為は、理窟を考えている余裕をさえ私に与えませんでした。
私は妻を押し退けて、義夫の腕に三筒注射しました。妻は頻《しき》りに何とか言っていた様子でしたがその言葉は少しも私の耳にはいりませんでした。見る見るうちに、義夫の唇の色は紫から紅《あか》に移り変って行きました。「しめたッ」と私は心の中で叫びました。第四筒を注射すると、義夫はぱっちり眼をあきました。
「義夫、わかるか?」と、私はのぞき込んでたずねました。
彼は軽くうなずきました。私の眼からはらはらと涙がこぼれました。すると義夫は口をもがもが動かしかけました。多分何か言おうとするのです。
突然、妻はその右の手をのばして、あたかも窒息させようと思うかのように、義夫の口と鼻とを蔽いながら強く押しつけました。
「何をするッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と、私は力任せに妻の肩をつかんで後ろへ引き退けると、その拍子に妻はどたりと尻餅をつき、ガラス製のテーブルを引っくりかえしました。硝子《ガラス》の割れるはげしい雑音は、義夫をも驚かしたらしく、彼は軽く唸りながら、物を言いかけました。私は、世の中のあらゆることを忘れ、全精神を集注して、彼の口許を見つめました。
「……お母さん……堪忍して下さい。……お母さんに突き落されたとき……僕、すぐ、死ねばよかった……」
がん[#「がん」に傍点]と脳天を斧で打たれた程の激動を私は覚えました。あたりが急に暗くなり、気が遠くなりました。しかし、私は義夫の口から出る臨終の血の泡をかすかに見ました。そうして、背後《うしろ》で発せられた妻の発狂した声をかすかに聞きました。
「オホホホホ、だから、強心剤などつかってはいけないというのに……オホホホホ」
[#地付き](「新青年」大正十五年四月号)
底本:「探偵クラブ 人工心臓」国書刊行会
1994(平成6)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「恋愛曲線」春陽堂
1926(大正15)年11月13日初版発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2007年8月21日作成
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