用いましたが、先刻まで非常に苦しみ喘いでいた患者は、注射によって、程なく、すやすやと眠り、そのまま所謂大往生を遂げるのでありました。勿論、私は家族の人々に向って、患者の恢復の絶望である旨を告げ、でも、出来得る限り、苦痛を少なくして、一刻でも余計に生かす方法を講ずるのであるといって、モルヒネを注射したのでありますが、患者がいかにも、安楽な表情をして眠ったまま死んで行く姿を見ると、家族の人々は口を揃えて、患者の臨終が楽であったのは、せめてもの慰めになると言うのでありました。妙なもので、そうしたことが度重なると、「あの先生にかかると、誠に楽な往生が出来る」という評判が立ち、却って玄関が賑かになると云う有様になって参りました。西洋の諺《ことわざ》に「藪医は殺し、名医は死なせる」とありますが、なるほど安らかに死なせさえすれば名医にはなれるものだと、つくづく感じたことであります。これは実に皮肉な現象でありまして、病人を生かしてこそ名医であるべきだのに、死なせて名医となっては、甚だ擽《くすぐ》ったい感じが致しますが、この辺が世間の心理の測り知るべからざる所だろうと悟りました。
さて、そういう評判が立って見ると、決して患者を苦しませてはならぬと思うものですから、一層しばしば安死術を行うことになりました。しかし、私自身の家族のものにも、安死術を行うことは絶対に秘密にしておりましたので、何の支障もなく、凡《およ》そ九年ばかり無事に暮して来ましたが、とうとうある日、ある事件のために、安死術を行うべきであるという私の主義が破られたばかりか、医業すらも廃《や》めてしまうようなことになりました。何? 私の安死術が発見された為にですって? いいえ、そうではありません。まあ、しまいまで、ゆっくり聞いて下さい。
その事件を述べる前に、一応、私の家族について申し上げなければなりません。郷里で開業すると同時に私は同じ村の遠縁に当る家から妻を迎え、翌年|義夫《よしお》という男児を挙げましたが、不幸にして妻は、義夫を生んでから一年ほど後に、腸|窒扶斯《チブス》に罹《かか》って死にました。え? その時にも安死術を行ったのですって? いいえ、腸窒扶斯の重いのでして、意識が溷濁《こんだく》しておりましたから妻は何の苦痛もなく死んで行きました。妻の死後、母が代って義夫を育ててくれましたので、私は後妻を迎えないで
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