者などの臨終には、むしろモルヒネの大量でも与えて、苦痛を完全に除き、眠るが如く死なせた方が、どれ程、患者に取って功徳になるか知れないではあるまいか。と、考えるのが常でありました。実際、急性腹膜炎などの患者の苦しみ方は、到底見るに堪えぬほど悲惨なものであります。寝台の上を七転八倒して、悲鳴をあげつつもがく有様を見ては、心を鬼にしなければ、強心剤を与えることは出来ません。又、脳膜炎に罹《かか》って意識を失い、疼痛だけを激烈に感ずるらしい患者などは、万が一にすらも恢復する見込は無いのですから、一刻も早く安らかに死なせてやるのが、人道上正しいのでありますまいか。
そもそも人間が死を怖れる有力な原因は、死ぬときの苦しみ、かの所謂《いわゆる》「断末魔の苦しみ」を怖れるからだろうと私は思います。死際《しにぎわ》の、口にも出せぬ恐しい苦痛が無かったならば、人間はそれ程に死を怖れないだろうと思います。大抵の老人は、口癖に、死ぬ時は卒中か何かで、苦しまずにポッキリ死んで行きたいと申します。死が追々近づいてくるにつれ、死のことを考えるのは当然のことですが、死のことを考えるとき、最も始めに心に浮ぶのは安く死にたいという慾望に外なりません。オーガスタス大帝も、「ユータネシア、ユータネシア」と叫んだそうですが、もしお互に自分が不治の病にかかって、臨終にはげしい苦痛が来たとしたら、恐らくその苦痛を逃れるために死を選ぶにちがいないだろうと思います。まったく、私の経験に徴して見ましても、そういう例には度々遭遇したのであります。多くの場合、家族の人たちが、患者の苦しむのを見るに見かねて、どうせ助からぬ命でしたら、あのように苦しませないで、早くらく[#「らく」に傍点]に死なせてやって下さいませんかと頼むのですが、時には、患者自身が、早く死なせて下さいと、手を合せて頼むような場合がありました。
しかし、現今の医師たるものは、法律によって、如何なる場合にも、患者を死なせる手段を講じてはならぬことになっております。即ち、もし安死術を故意に施したならば、相当の刑罰を受けなければなりません。ですから、医師は誰しも、たとい、無闇に苦痛を増すに過ぎないということがわかっていても、とにかく、カンフル注射を試みて、十分間なり二十分間なり余計に生きさせようと努めるのであります。従って、「臨終といえばカンフル注射」という
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