あるし、又、ルコックの出て来る小説も、長短篇合せると相当の数になるから、已《や》むを得ない訳であろう。
 総じて探偵小説にあらわれる素人探偵は、警察の探偵を翻弄する。例えばシャーロック・ホームズはレストレードを翻弄し、ルコックはゲヴロルを物ともしない。そうして、ヂュパンも同様に警察官を嘲弄しているのであって、このこともやはりヂュパンがその元祖となっているのである。実際ポオの書いている如く、ヂュパンの智嚢《ちのう》は「病的」であるほど深いのであるから、丁度カーライルが、彼の同時代の英国民を「四千万の愚物」と称して嘲ったように、警察の探偵を嘲ったのは無理もないことである。
 が、実際の探偵から見れば探偵小説の探偵ほど実在性の少いものはなく、これはかのフランスの名探偵ゴロンが特に指摘した点である。しかし小説は畢竟小説であって実世間の記録ではないから、今後の探偵小説家も、よろしく、警察の探偵を罵《ののし》り散らすような素人探偵を描くがよかろう。
 いや、思わずも筆が脇道に走って、概念論を書いてしまったが、さて、ヂュパンに対して私がどんな感じを抱くかというに、まるで一種の機械を見るような感じがする。実際ヂュパンは thinking machine である。「マリー・ロージェー事件」を読んでいると、精巧な機械が、整然として運動し、以《もっ》てその仕事を行ってゆく姿を見ているようである。それは丁度、むずかしい数学の問題が漸次に解かれて行く時のような喜びを読者に与えるけれど、喜びはただそれだけに過ぎない。即ち読者は事件の解決さるるのを喜ぶだけであって、解決したその人に対しては、さほどの親しさ、なつかしさを持つことが出来ないのである。
 しかしヂュパン自身は、却《かえ》って他人から親しまれることを欲していないようである。すべて、異常に知力の発達した人は、俗人の相手になることを頗《すこぶ》る嫌う。ヂュパンは夜でなくては散歩に出ない。又、家に居るときは、窓に鎧戸を下して、人工的の光の中で瞑想思考する癖がある。人間を厭《いと》うばかりでなく、太陽の光をさえ避けようとしている。ヂュパンばかりでなく、シャーロック・ホームズも同じような性質を持っていて何となく人を寄せつけまいとする態度が明かに見られる。が、私は、それだからヂュパンやホームズが嫌《きらい》であるというのではない。どちらかというと私
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