の文の最初に掲げた)はデフォーがしばしば用いた手段と同じように、読者の感興を深からしめるための方策に過ぎないといっても差支ないと思われる。
以上のような訳で、メリー・ロオジャース殺害事件なるものは、厳密に言えば犯人が如何なる種類の人間であったかということのみならず、何処で殺害が行われたかということさえわからぬ謎の事件なのである。
四、探偵小説としての「マリー・ロオジェ事件」
マリー・ロオジェ事件は、もとより探偵小説であって事件の記録ではないが、その中に前節に述べたような論理的矛盾のあるということは、探偵小説としても幾分の感興が薄らぐ訳である。然《しか》るに、この小説を読んでいると、ヂュパンの明快な議論と、その歯切れのよい言葉に魅せられて、どうかすると、これらの論理的矛盾に気がつかないのは、偏《ひとえ》にポオの筆の偉大なことを裏書きするものであるといってよい。実際、探偵小説を愛好される読者は、恐らくこの小説を読んで、多大の興味を覚えられるにちがいないと思う。
ポオがこの物語を綴るに至った動機が何であるかはもとより知る由もないが、警察の無能に憤慨して筆を取ったというよりも、この事件を種として、ヂュパンの性格を一層はっきりせしめ、ポオ自身の推理力を遺憾なく発揮して見ようと企てたのであろうと思われる。さればこそ、既に述べたように死体の個体鑑別に殆んど物語の三分の一を費しているのである。そうしてその個体鑑別の精細な点は実に驚嘆に値する。「まあもう一度、ボオヴェー君の死体鑑別に関する部分の議論をよく読んで見給え……」から以下の文章は、個体鑑別に就て書かれた従来のどの文章にも劣らぬ名文であると思う。
この文章に魅せられた読者は更に進んで、犯人及び殺害の場所に関する推理に導かれる。「今さしあたっての問題としては、吾々はこの悲劇の内部の問題には触れぬことにして、事件の外廓に専ら注意を集中しよう。こんな問題の場合には傍系的といおうか、附随的といおうか、直接事件に関係のない事柄を全く無視するために、取調べに間違いが起ることがざらにあるもんだ。裁判所が、証拠や議論を、外見上関係のある範囲に限定するのは悪い習慣だよ。だが、真理というものは、多く、いや大部分、ちょっと見たところでは無関係に見えるものの中にひそんでいるってことは、経験も証明しているし、ほんとうの哲学もきっと
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