もそんなのは居ないようだね」
一人が考え/\答えた。
石子刑事の御馳走と世間馴れた話振に、すっかり打解けた運送店の人夫は知っているだけの事は残らず話し、背の低い運送人についても考えて呉れたが、結局誰も知らない事になって、石子刑事は何一つ得る所なくその運送店を出ねばならなかった。
石子刑事はそれから丹念に運送店を一軒々々訪ね歩いたが、正午近くまで何の効果もなかった。
目黒駅から五反田駅の方にかけて尋ね歩いていた渡辺刑事も正午頃まで無駄足をしていた。
が、この度は運は渡辺刑事にあった。
彼が落胆しながら重い足を引摺って五反田の方から引返して来ると、或る狭苦しい横丁に、うっかりしていると見落すような一軒の小さい運送店があった。彼は薄暗い店前《みせさき》を覗いた。
「お宅じゃなかったですかね、背の低いがっしりした若い者のいたのは」
奥から主人らしい男が仏頂面をして出て来て、胡散臭《うさんくさ》そうに渡辺刑事を見た。
「兼吉の事ですか」
「そう/\、兼吉さんでしたね」
「何かご用なんですか」
「実はね」
渡辺刑事は声を潜めた。
「支倉さんから頼まれて来たんですが」
「あゝそうですか」
主人は急に愛想よくなった。
「先程は沢山頂戴いたしまして有難うございました」
「荷物は間違いなくついたでしょうね」
しめたと心中|雀躍《こおどり》しながら渡辺はさあらぬ体で云った。
「えゝ、確かにお納めいたしました」
「もう兼吉さんは帰っているんですか」
「えゝ、何か御用でしょうか」
「えゝ、ちょっと」
「おい、兼吉」
主人は奥を覗いて呼んだ。
出て来たのは背の低い頑丈そうな男で、半纏の背中に真赤な胡蝶の形が染め出されていた。
「何かご用ですか」
「支倉の荷物はどこへ運んだか云って貰いたいのだ。僕はこう云う者だ」
忽《たちま》ち態度を変えて渡辺は名刺を差出しながら、威嚇するように兼吉と云う若者を睨みつけた。
若者は、チラと渡辺のさし出した名刺を見ると、不機嫌な顔をして、口をへの字に結んで横を向いた。
「おい」
対手の態度に少し狼狽した渡辺刑事は再び呶鳴った。
「早く云わないか」
「そんなに頭ごなしに云わなくっても好いじゃありませんか。悪い事をしたと云う訳じゃなし」
彼はぷん/\して答えた。
もしや口止めでもされていると生優しい問方では云うまいと思って、高圧的に出て見たのだったが、対手にこう出られると渡辺刑事も返す言葉がない。
「いや悪かった。つい癖が出てね」
渡辺刑事は苦笑しながら、
「まあ、気を悪くしないで呉れ給え。すまないが荷物の送先を教えて呉れ給え」
若者の機嫌は少し治ったが、未だ容易に口を開こうとしなかった。
「おい、兼吉、旦那もあゝ仰有《おっしゃ》るんだ。早く申上げたら好いじゃないか」
主人が口を添えた。
「飯倉一丁目の高山と云う宅《うち》ですよ」
彼は漸く吐き出すように云った。
運送店を突留めてそこの若い者からどうやら荷物の届先を聞き出して渡辺刑事は、喜び勇んで支倉の家の附近に引返した。打合せてあった通り石子刑事は茫然《ぼんやり》待っていた。渡辺が成功した事を伝えると、彼は雀躍《こおど》りして喜んだ。
二人は直ぐに帰署して司法主任に事の次第を報告した。
「よし」
司法主任は上機嫌だった。
「応援を五、六人連れて直ぐ逮捕して来給え」
「さあ」
根岸刑事は落凹んだ眼をギロ/\させながら云った。
「余り騒がん方が好いじゃないですかなあ。鳥は威かさない方が好いですからなあ」
「そんな悠長な事が云ってられるものか」
司法主任は少し機嫌を損じた。
「愚図々々していると又逃げて終《しま》うよ」
「そうです」
石子は勢いよく云った。
「運んだ荷物は中々少くないのですから、当分潜伏する積りと見て好いでしょう。大丈夫いますよ。一時も早く捕えたいものです」
「うん、それも宜かろう」
根岸は皮肉な苦笑を浮かべながら、
「然しね、君、自然に逃げた鳥は又巣に戻って来るが、威かした鳥はもう帰って来ないよ」
「謎みたいな事を云うね」
石子は根岸の皮肉な笑に報いるべくニヤリとした。
「謎じゃないさ。僕はどうもその高山と云う家へ踏込む事は賛成出来ないのだ」
「どうして?」
「支倉にしては手際が悪いからね」
「何だって」
石子は聞咎めた。
「そうすると詰り君は、支倉は僕達に潜伏場所を突留められる程ヘマではない。云い変えれば僕達には本当の潜伏場所などは突留められないと云うのだね」
「そう曲解して貰っては困る」
根岸刑事は持前の調子で冷然と云った。
「兎に角僕の考え通りやってみよう」
「そうし給え」
横合から渡辺刑事が吐き出すように云った。彼はさっきから、自分が折角苦心して探し出した飯倉一丁目の家に、根岸刑事がケチをつけるような事を云うのでいら/\していたのだった。
根岸刑事はジロリと渡辺を見たが、何にも云わなかった。
石子、渡辺両刑事は五、六人の応援を得て、飯倉一丁目を目指して繰出した。
目的の家はT字路の一角に建った格子造りの二階家だった。裏口に二人、辻々の要所に一人宛同僚を立たせて、表口から石子、渡辺が這入る事に手筈を極めた。
日ざしの様子ではもう四時近いと思われた。寒《かん》は二、三日前に明けたけれども、朝から底冷えのするような寒さだった。日当りの悪い高山の家の前には、子供の悪戯であろう、溝石の上に溝から引上げて打ちつけた厚氷が二つ三つに砕けて散って居た。
ふと上を仰ぐと二階の半面には鈍い西日がさして、屋根の庇に夏から置き忘られたのだろう、古びた風鈴が寒そうに吊下っていた。
「ご免下さい」
石子は声をかけた。
「はい」
奥から出て来たのは十五六の女中風の小娘だった。
「芝の三光町から来ましたが、支倉の旦那に一寸お目にかゝりたいのです」
「はい」
小娘はこっちの名も聞かずに引込んで行った。石子はしめたと思った。
返辞いかにと片唾《かたず》を飲んでいる石子刑事の前へ現われたのは女中でなくて、四十近い品のある奥さん風の女だった。
「あの、支倉さんのお使いですか」
彼女は腑に落ちないような顔で石子を仰ぎ見た。
「はい、そうです」
「荷物を取りにお出《いで》たのですか」
意外な言葉である。流石の石子も鳥渡《ちょっと》二の句がつげなかった。
「え、荷物を取りに?」
「そうじゃないんですか」
奥さんは後悔したように云った。
「さっき支倉さんから荷物が一車来ましてね、いずれ頂きに上るから預っといて呉れと云う事でしたから、もう取りに見えたのかと思いましたのですが」
「じゃ、支倉さんは居られないのですね」
石子は落胆《がっかり》した。
「はい、見えては居りません」
「支倉さんに是非お目にかゝりたいのですがね。今どちらにお出でゞしょうか」
「さあ、それは手前共には分りませんが、お宅の方でお聞き下さいましたら」
「お宅で伺って、こっちへ来たのですがね、鳥渡お待ち下さい」
石子は外に立っている渡辺を呼びかけた。
「君、支倉さんは居ないんだって」
「そんな筈はないがね」
渡辺はのっそり這入って来た。彼は奥さんに軽く頭を下げながら、
「さっき荷物が来たでしょう」
「はい」
奥さんは警戒するように眼を光らした。
「じゃ、支倉がいないと云う筈がない」
渡辺は語調を強めた。
「いゝえ、私共では荷物をお預りした切りです。一体あなた方は何ですか」
奥さんも少し景色ばんだ。
「いえ、何、ちょっと支倉さんに用があるのですがね」
石子は渡辺の方を向いて、
「君、いなければ仕方がないさ。出直そうじゃないか」
渡辺は首を振った。彼は自分がこの家を突留た為でもあろうか、支倉がこの家に潜んでいる事を深く信じているのだった。
「じゃ何でしょう奥さん」
渡辺は尚も鋭く云った。
「支倉は此頃お宅へ訪ねて来たでしょう」
「はい、二、三日前に一度」
「それからずっといるでしょう」
勢いづいた渡辺は追究した。
「いゝえ」
奥さんは不快そうな顔をした。
「一体あなたはどなたですか」
「僕は刑事です」
「えっ!」
奥さんは顔色を変えた。
「奥さん、支倉は今警察のお尋ね者なんです。あれを匿《かく》まうような事があっては不為ですぞ」
「何も匿まいはいたしません」
彼女はきっぱり云ったが、何となくオド/\していた。
「君」
渡辺は石子の方を振向いた。
「兎に角荷物を見せて貰おうじゃないか」
石子はさっきから渡辺が少しやり過ぎると思っていた。性質から来るのか、石子の遣方は渡辺とは違う所があった。然しこうなっては騎虎《きこ》の勢い、渡辺に従って座敷に踏み込むより仕方がなかった。奥さんも別に二人の上るのを拒みもしなかった。
支倉から来た荷物は玄関脇の四畳半に積み重ねてあった。どの部屋もきちんと整頓されていた。二人は何物をも見逃すまいと、鋭い眼で隅々までも睨め廻したが、支倉の姿は無論、彼の潜伏していたらしい形跡もなかった。
「うむ、根岸の云った事が本当だったかな」
石子はもし支倉がいたら、
「どうだい、君みたいな生温《なまぬる》い事では駄目だぜ」
と得意になって云うだろう所の、情気切っている渡辺の耳許で囁いた。
石子、渡辺の両刑事が飯倉の高山の家に乗込んでいる時分、三光町の支倉の家では細君の静子が力なげに外出の支度をしていた。
彼女は白金学院の女学部を出て更に神学科を修めて、二十七と云う若い女ながらも自宅に日曜学校を開いて、教鞭を取っていたので、支倉が神学徒の仲間に知られるようになったのも過半は彼女の為だったのだ。夫が忌しい嫌疑を受けて出奔してからは、度々刑事の来訪を受けるし、家の周囲にも絶えず監視の眼が光っているようだったので、日曜学校の生徒も遠退き、こちらからも遠慮するようになって今は訪ねる人もなく、彼女も只管《ひたすら》謹慎して、滅多に外出しないのだったが、今日は朝方荷物を飯倉一丁目の高山――それは信者の仲間だった――の家に送り出して終《しま》うと、気分がすぐれないように襟に顔を埋めてじっと一間に坐っていた。
さらでだに少人数には広過ぎた家は夫なき今、小女一人を対手では恰も空家にでも住んでいるようにガランとしていた。
昼食後も亦元の所に坐って茫然《ぼんやり》薄日の差す霜解けの庭を眺めていたが、三時を過ぎると物憂げに立上って、気の進まぬように着物を着替え初めたのだった。
彼女がキチンとした身装《みなり》をして蒼ざめた顔を俯向けながら、門の外へ出たときは、かれこれ四時だった。
二、三歩門の前を離れると、彼女はきっと頭を上げて鋭く四辺《あたり》をグルリと見廻して、人影のないのを見きわめると、又トボトボと歩き出した。
然し彼女は誤っていたのだった。
彼女が安心して歩き出すと、隣の家の勝手口に置いてあった大きな埃溜《ごみため》の蔭からニョッキリ立上った男があった。二重廻しを着た小柄な、一見安長屋の差配然とした中年の男で、眉深《まぶか》に被った鳥打帽子と襟巻とで浅黒い顔の大部分は隠れていたが、鋭い眼がギョロリ/\と動いていた。彼は何食わぬ顔で静子を追跡し出した。
彼女は尾行者のある事には少しも気づかないで、通りに出ると電車には乗らず、目黒の方へ歩いて行った。無論怪しい男は追って行く。
彼女が目黒駅に辿りついて切符売場の窓に向うと、怪しい男は彼女の真後に食っついて蟇口を開いて待構えていた。
「中野往復を下さいな」
彼女は小窓を覗くようにして云った。
彼女は切符を受取るとさっさと改札口に向った。もう少し悠《ゆっく》りしていれば彼女の直ぐ後から、
「中野片道一枚」
と叫んでいる怪しい男に気がついたであろうが、彼女は何事か深く考えている様子でそんな事には少しも気がつかなかった。
プラットホームに降りて電車を待つ間も、電車に乗り込んでからも、代々木駅で乗替えの間も、怪しい男は絶えず静子と適当の間隔を保ちながら、鋭く彼女を観察していた。
中野駅で電車が止まると静子はそゝくさと降りた。怪しい男も無論続いて
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