検閲係りも多い中とて、つい疎漏に流れたと見える。
 然し、支倉の書信は全部許可された訳でなく、可成り発送止めになったのだった。それを以て見ると彼がどんなに多くの手紙を認めたか想像に余りある。彼は検閲に不満を抱きこんな上願書を典獄に出した。
「お願い申すのは甚だ恐れ多い事ですが、私から外へ出す書信を御不許可に遊ばす際にはこの所此の所が悪いから不許、この所を抹消したなら発信を許可してやると云う事に、一寸お印をおつけ頂き、そこを抹消したなら発送を御許可しいたゞけますよう、此所上願書を以て及上願候也」
 大正十一年六月七日第十二回の公判が開かれた。
 支倉は徹頭徹尾犯罪事実を否認し怒号した。
「神楽坂署で庄司署長がお前と義兄弟になって、必ず悪くは計らぬから、俺の顔を立てゝ白状して呉れと泣かん許りに頼みましたから、その気になり全然虚偽の自白をしたのです。あの頭蓋骨は品川の菓子屋の娘ので、貞のではありません。庄司がそう申して居りました」
 この公判の時之まで弁護人から度々申請して許されなかった、神楽坂署の佐藤司法主任石子刑事の二人が次回に証人として呼ばれる事になった。

「東京未決監未決六年、冤枉《えんおう》者支倉喜平」
 之が大正十一年頃支倉がその書信に定って麗々しく書いた署名だった。
 彼は六年の長い間未決監にあって、冤罪を訴え続けていた。彼の主張は神楽坂で拷問を受け心にもない自白をしたと云う一点だった。無罪か死刑か。実に明治大正を通じての一大疑獄たるを失わない。
 支倉の自白に立会った人はその真実を信じるだろうし、収監以後彼の愁訴を聞いた人達は又彼の云う所を信ずるであろう。木藤大尉は彼を哀れんで助けようとし、能勢弁護士は神楽坂署の拷問事件を糺弾しようとする。殊に後者は機会ある毎に新聞に雑誌に講演に、官憲の人権蹂躙を叫んだので、只さえ一大疑獄になろうとしている所へ、被告人支倉が又特別な性格の持主、そこへ能勢氏の宣伝と三拍子揃ったから、世論|囂々《ごう/\》、朝野の視聴を集め、支倉事件は天下の一問題となった。
 能勢弁護士はどうでも神楽坂署員の首の根っ子を押えて、取っちめようと云う考え、之まで度々署長以下の喚問を願ったが、中々許可されなかった。今度も肝心の元署長で今は警視庁の官房主事をしている庄司氏は許可されなかったが、司法主任と、支倉の逮捕には最初から奔走した石子、渡辺両刑
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