蹴飛ばして、ゴム管を外《はず》し、それを知らないで、そのまま寝台に潜り込んで終うという事は起り得ないことはあるまい。
 然し、一定時間睡眠をとれば、それが仮令《たとい》三十分|乃至《ないし》一時間の短時間であっても、余ほど知覚神経の麻痺は回復するものだ。むしろ知覚神経の麻痺の回復によって、眼が覚めるという方が本当かも知れない。毛沼博士が一旦寝台に横《よこたわ》ってから、暫くして眼を覚ましたものとすると、もう余ほど酔が覚めているだろうから、ガス管を蹴飛ばしたり、ガスの漏洩に気がつかないという事はない筈だ。それに博士はそれほど泥酔はしておられなかった。現に洋服を脱いで寝衣に着かえるだけの気力があったのだし、私に「帰って呉れ給え」とちゃんといわれたのだから、人事不省とまでは行っていない。第一、それほどの泥酔だったら、朝までグッスリ寝込んで、眼は覚めない筈である。遅くとも一時までに一回起きて、寝室の扉に鍵を下されたということが、酔いが比較的浅かった事を示しているではないか。
 考えても、考えても、考え切れぬ事である。循環小数のように、結局は元の振出しに戻って来るのだ。
 ああ、私は早くこんな問題を忘れて終いたい!

     ユーレカ!

 だが、私は忘れることが出来なかった。呪わしい写真版よ、私はあんなものを見なければよかったのだ!
 無論私は笠神博士をどうしようというのではない。それどころか、私は博士を師とも仰ぎ親とも頼み、心から尊敬し、心から愛着しているのだ。もし、博士を疑うものがあったら、私はどんな犠牲を払っても弁護したであろう。次第によったら生命だって投げ出していたかも知れぬ。それでいながら、私は博士に対する一抹の疑惑をどうすることも出来ないのだ。
 私は疑惑というものが、どんなに執拗なものか、どんなに宿命的のものであるかを、つくづく嘆ぜざるを得なかった。よし笠神博士が実際に毛沼博士の寝室に忍び込まれたとしても、どんな恐ろしい目的を抱いておられた事が分ったとしても、私は笠神博士を告発しようなどという考えは毛頭ないのだ。仮りに博士がそういう場合に遭遇されたら、私は身代りにさえなりたいと思う。それでいながら、疑いはどうしても疑いとして消すことが出来ないのだった。私は知りたかった。どうかして、笠神博士の秘密が知りたかった。博士が毛沼博士の寝室へ忍び込まれた理由と、それからあの奇怪な脅迫状の秘密が知りたかった。
 私は最早あの脅迫状が、笠神博士から毛沼博士に送られたものであることを疑わなかった。ドイツ語で書かれていた点といい、血液型を暗示するような記号が書かれていた点といい、笠神博士が毛沼博士の寝室から紛失した写真版を持っておられる点といい、笠神博士を除いては、あの脅迫状の送手はないと思うのだ。
 両博士の間にはきっと何か秘密があるに違いない。それは恐らく、夫人との三角関係に基くものではないだろうか。そんな三角関係などは二十余年も以前の事で、上面《うわべ》は夙《と》うに清算されているようだが、きっと何か残っていたに違いないのだ。
 恐ろしい疑惑! 私はどうかして忘れたいと、必死に努力したけれども、反って逆に益々気になって行くのだった。今は寝ても醒めても、そればかり考えるのだった。このままでは病気になって終うのではないかとさえ思うのだった。
 私は今はもう私自身の力でどうかして、この恐ろしい疑惑を解かなければ、いら立つばかりで、何事も手につかないのだ。
 敬愛している笠神博士の秘密を探るなぞという事は、考えて見ただけで不愉快な事であったが、私はそれをせずにはいられなかった。私は博士に気づかれるのを極力恐れながら、何気ない風で博士に問いかけたり、夫人にいろいろ話かけたりした。又、博士の過去の事を知っていそうな人に、それとなく探りを入れたりした。然し、私は殆ど得る所はなかった。
 私は又、毛沼博士の変死の起った当夜の秘密をどうかして解こうと努力した。何といっても、根本的な不可解は、寝室の扉《ドア》が内側から鍵がかかっていたという点にあるのだ。私は無論新聞記事だけで満足している訳には行かぬ。私は度々毛沼博士邸にいた婆やに会って、その真実性を確かめた。婆やが確《かた》く証言する所によると、扉は間違いなく内側から鍵がかかっていたのだった。窓も勿論みんな内側から締りがしてあった。鍵は錠にちゃんと差し込んだままだったという。私は探偵小説に出て来るトリックを思い出した。外側から内側の鍵をかけるという事については、外国の探偵作家が、一生懸命に脳漿を絞って、二三の考案をしている。然し、それは可成実際に遠いもので、私が覚えている毛沼博士の扉について、更に委しく婆やの説明を聞くと、それらの作家の考案は決して当嵌《あてはま》らないのだった。毛沼博士が閉された密
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