ん》が行かなかった。然し、考え方によると、こうした他人行儀的態度は、博士の性格に基くもので、学問に没頭して、それ以外の何の趣味もなく、何の興味もない博士の事であるから、必ずしも冷いというものではないかも知れないのだ。
夫人は飽くまで温良貞淑だった。少しも博士の意に逆おうとせず、自分を出そうとせず、控え目にして、書斎の出入には足音さえ立てないという風だった。私に対しても、控え目な然し十分な厚意を示された。決して一部で憶測しているような、博士は博士、夫人は夫人といったような離れ放れの夫婦ではなかった。噂によると、博士と夫人がこういう外観的の冷い仲になったのは、十年ばかり以前に夫婦の間の一粒種だった男の子が、十いくつかで死んでからだともいい、又、それは結婚すると間もなく始まったともいう。私にはどっちが正しいのか、それとも両方とも間違っているのか分らない。
話が大分傍路に這入ったが、之で私が血液型の研究から、博士と非常に親しくなった経緯は分って貰えたと思う。
話を本筋に戻そう。
脅迫状
署長は机の抽斗から、紙片を取り出して、私に示した。紙片は薄いケント紙を長方形に切ったもので、葉書よりやや大きいかと思われるものだった。それに丸味書体《ルンド・シュリフト》という製図家の使う一種の書体で、次のような文字と、記号が書かれていた。
[#ここから12字下げ]
Erinnern Sie sich zweiundzwanzigjahrevor !
Warum O×A → B ?
[#ここで字下げ終わり]
「ドイツ語ですね」私はいった。「二十二年|以前《まえ》を思い出せ、と書いてありますね。それから何故《ワルーム》、というのですが、この記号は――」
私は首を捻った。
兎角人は物事を、自分の一番よく知っている知識で解決しようとするものだ。例えば患者が激しい腹痛を訴えた時、外科医は直ぐ盲腸炎だと考え、内科医は直ぐ胆石病だと考える、というような事がいわれている。そこで、私はこの記号を、直ぐ血液型ではないかと考えた(そしてこれは間違ではなかったのだが)。
「えーと、之は血液型の事をいったのじゃないでしょうか」
「どういう事ですか」
「つまり、何故ですね、何故、O型とA型から、B型が生れるか」
「何の事です。それは」
「そういう事ですね。O型とA型の両親からB型が生れるのは何故か、という事なんでしょう」
「それと前の言葉とどういう関係があるんですか」
「分りません」
「ふん」
署長は仕方がないという風にうなずいた。
私は訊いた。
「一体なんです。之は」
「毛沼博士の寝室で発見されたんです」
「へえ」
意外だったが、意外というだけで、それ以上の考えは出なかった。それよりも、今まで肝腎の事を少しも分らせないで、散々尋問された事に気がついたのだった。私は最早猶予が出来なかった。
「毛沼博士はどうして死んだんですか」
「瓦斯の中毒ですよ。ストーブ管がどうしてか外れたんですね。部屋中に瓦斯が充満していてね、今朝八時頃に漸く発見されたのです」
「過失ですか。博士の」
「まあ、そうでしょうね。部屋の扉が内側から鍵がかかっていましたからね」
「じゃ、博士が管を蹴飛ばしでもしたんでしょうか。私が出た時には、確かについていましたから」
「そうです。博士が少くても一度起きたという事は確かですから。鍵を掛ける時にですね」
「八時までも気がつかなかったのはどういうものでしょう」
「休日ですからね。それに前夜遅かったし、グッスリ寝ていたんでしょう」
説明を聞くと、十分あり得ることだ。現に知名の士で、ストーブの瓦斯|漏洩《もれ》から、死んだ人も一二ある。だが、私には毛沼博士の死が、どことなく不合理な点があるような気がするのだった。
「じゃ、過失と定ったのですか」
「ええ」
署長はジロリと私の顔を眺めて、
「大体決定しています。然し、相当知名の方ですから、念を入れなくてはね。それで、態々《わざわざ》来て貰ったのですが、御足労|序《ついで》に一度現場へ来て呉れませんか。現場についてお訊きしたい事もあるし、それに君は法医の方が委しいから、何か有益な忠告がして貰えるかも知れない」
「忠告なんて出来る気遣いはありませんけれども、喜んでお伴しますよ」
私達は直ぐ自動車を駆って、毛沼博士邸へ行った。もう十時を少し過ぎていて、曇り勝な空から薄日が射していたが、外は依然として寒く、街路に撒《ま》かれた水は、未だカンカンに凍っていた。邸前に見張をしていた制服巡査は寒そうに肩をすぼめていたが、署長を見ると、急に直立して、恭々《うやうや》しく敬礼した。
寝室は死骸もそのまま、少しも手がつけてないで保たれていた。昨夜あんなに元気だった博士は、もうすっかり血の気を失って、
前へ
次へ
全19ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング