に預けて置いて私は直ぐ、呉服店に引き返えそう。今は三時だから呉服店の閉る五時までには充分本所まで往復する時間はある。その時分には父は帰っているだろうし、あの奥さんは自分の子供の事だ、余計に心配をかけるのは気の毒だが、きっと待っているだろう。そう決心して私は電車に乗った。
 妻は私が赤ン坊を連れて帰ったのを見ると、丸い眼をはち切れるように瞶《みは》って吃驚した。
 私が手短に事情を話すとまあと云って赤ン坊を受取った。そうして、
「なんて可愛い赤ちゃん」と云った。
 誰だって、この赤ン坊を見たならばこう云わないで居られるものか。赤ン坊もやっぱり妻に抱かれる方が気持が好いのだろう。ニコニコと笑った。
 妻は父に見つけられはしないかと、ひどく恐れたけれども、私は云い宥《なだ》めて、すぐ呉服店に引返えした。
 恐々内部へ這入ったが、父の姿はもう見えなかった。そうして何とした事だ、赤ン坊のお母さんの姿もどこにも見えないのだ。
 私は呉服店が閉るまで、内部をうろつき廻った。閉っても未だ暫く外に立っていた。けれどもとうとう奥さんの姿は見えなかった。
 重い足を引摺って暗い気持に浸りながら、再び私は宅へ帰った、赤ン坊はスヤスヤと寝て居た。留守中に一度激しく泣いたそうだけれども、二三軒先のおかみさんに乳を貰うと、そのまま寝ついたのだった。
 私は妻と顔を見合せてホッと溜息をついた。
 私達二人でさえ、もち扱っているのだ、こんな天使のような悪戯者が飛び込んで来て、どうすることが出来ると云うのだ。
 二人はいろいろ相談した。
 何と云っても、警察へ届けるのが一番だけれども、それは出来なかった。父は警察へ私の捜索を依頼しているに違いないから、第一父に見つけられる事が恐かったし(之は妻が特別に恐れた。何故ならもし私が見つかればきっと二人の仲を裂かれると思っていたから)、私達が偽名して今の所に住んでいるのが、ひょっと知れるのも恐かった。
 私は三年前今の妻と恋に陥ちた。妻は当時あるカフェの女給をしていた。彼女はほんとうに真菰《まこも》の中に咲く菖蒲《あやめ》だった。その顔があどけなく愛くるしいように、気質《きだて》も優しくて、貞淑だった。けれども頑固な父は女給であると云う事だけで私達の結婚をどうしても許さなかった。父にして見れば早く妻に別れて、男手一つで育て上げた一人息子は掌中の珠より可惜《いと
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