、もう今日は中途半端になって、どこと云って行く当もないし、裏長屋の一間で淋しく待っている妻の所へ帰ろうかと思ったが、ふと眼の前を走って来た赤く塗った、呉服店の自動車を見て、久し振りでそこへ行って見ようと云う気を起したのだった。
 あまり混雑するので、乗ろうか乗るまいかと決し兼ねている中に、又一台自動車がやって来た。群集の半分は忽ちその車の前へ集って中の人が降り切らないうちから犇めき出した。私は人波に押されて運よくその新しく来た車の前の方へ出る事が出来た。ふと見るとさっきの奥さんが、之も人に揉まれて、赤ン坊をつぶされまいと一生懸命に庇いながら、直ぐ私の傍へよろめいて来た。私は直ぐ自動車に乗る事に決めた。そうしてデッキに片足をかけて、奥さんに、
「赤ちゃんを抱っこしましょう」
 と声をかけて、奥さんの返辞を聞かないうちに、もう赤ン坊を受取って、中へ飛び込んだ。
 未だ初めの方だったから、私はずっと奥の方へ席を占めた。続いてドヤドヤ乗り込んで来たので、忽ち車は一杯になり私の前へは背を曲げて窮屈そうに二三人の人が立並んだ。車は直ぐ動き出した。
 車が動き出すと、間もなく心配になり出した事は、どうも奥さんの姿が見えない事だ。何しろ一杯に混んでいるから、両隣りの人でさえ、どんな人だか分らない位で、無論入口の方に乗っている人などはてんで見えないのだが、どうも奥さんが乗っているらしい様子が感じないのだ。私はだんだん心配になって来た。
 やがて自動車は、呉服店の前で止った。
 私は気が急いたけれども、中々降りる番が廻って来ない。漸くの事で片足が地面についた時に、それでも私はニコやかに迎える若い奥さんの姿を予期していた。が、どこにもその姿は見えなかった。
 私は情けない気持で次の自動車を待った。故障でもあったのか、自動車は中々来なかった。私はなき出したくなった。やがてブルブルと音を立てて自動車が眼の前へ止った時はああ助ったと思ったが、どうしたと云う事だ! 奥さんの姿は見えないのだ!
 私はあわてた。一生懸命にあやしても、兎もすると泣き出そうとする赤ン坊を抱えて居ては気が気じゃない。それに往来の人がジロジロと見るような気がする。考えて見ると――今まで何と云う迂闊《うかつ》な事だったろう――私はこんな人眼につく所にウロウロしている訳には行かないのだ。知ってる人にでも見つかればどんなにか困る
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