います。第一には兇器たる文鎮には歴然と指紋があって、犯人が部屋中を捜索したと認められるにもかかわらず、他に同様の指紋が現れない事で、兇行後手袋をはめるという事はちょっと常識では考えられませぬ。つまり犯人が二人いたか、あるいは指紋が兇行前既についていたか――』
『そんな事はないわよ』あたし思わず下村さんにいったの。『だって先生はあの文鎮が錆《さ》びるのが心配で始終拭いてらしったし、あたしも毎朝一度はきっと拭くんですもの』
『私も下村君の説に賛成です』内野さんがいったの。『この本箱を探した男は明らかに余程背の低い男です。ご覧の通り下から出した本を積み重ねて踏み台にしています。清水さんなら、無論踏み台なしで届きましょう』
あたしは何だか二人で清水の加勢をしているようで憎らしかったわ。二人は清水の回し者かしらと思ったわ。だって清水はあんなに先生を苦しめた奴じゃありませんか。何も弁護するに当たらないと思うわ、清水はひっつった死面《デスマスク》のような顔を二人の方に向けて、眼で拝んでいるようだったわ。
『文鎮の長さはどれ位でしょう』下村さんがあたしの思慮《おもわく》などお構いなしに聞いたわ。
『約一尺という事じゃが』検事さんの答え。
『もっと委《くわ》しく知りたいのです』
刑事ってんでしょうか、清水の傍にくっついていた人は渋々巻き尺を出して計ったわ。
『十一インチ四分の三』
『えっ、間違いはありませんか。大丈夫ですか――内野君』内野さんの方を向いて『君とほら、二、三日前にあの文鎮の長さの賭けをしたろう、君は長さを覚えているかい』
『十一インチ八分の七』内野さんがきっぱり答えたわ。
各自《めいめい》考えていたんでしょう。しばらく誰も口を利くものがなかったわ。あたしも考えて見たんだけれども何の事かちっとも分からなかったわ。下村さんは沈思黙考《ちんしもくこう》という形、内野さんはゴソゴソ本箱の辺で何やら調べ始めたようでした。
『文鎮を削って見て下さい』下村さんが突然叫び出したのであたし吃驚《びっくり》したわ。
下村さんのいう事がもっともらしいので、お役人もいう通りに削って見たけれども、やっぱり中までニッケルだったの。下村さんの考えは鍍金《めっき》じゃないかと思ったのでしょう。
『中までニッケルですか』がっかりしたようにいってまた腕を組んで考え出したわ。
そうすると今度は内野さんが怒鳴り出したの。
『あいつだ。そうだあいつだ』
皆|吃驚《びっくり》して内野さんの方を見たわ。
『皆さん、ご承知でしょう。ドイツ語教師古田正五郎を、あいつです。ここへ忍び込んで来たのは』
あたし二度吃驚したわ。だってこの古田の話はやっぱりあの無電《ラジオ》小僧と関係して、つい先頃新聞に喧《やかま》しく出された不思議な事件ですものね。今でこそもう覚えている人は余りありますまいが、当時は知らない人ってなかったでしょう。古田というのはね、どっか私立学校のドイツ語の先生で、片手間に翻訳なんかしている人なの。新聞に写真が出てたっけが、クシャクシャとした顔で、まるで狆《ちん》ね、それでいて頭が割合に大きくて背が人並はずれて低いっていうのですから、お化けに近いかも知れない。でも頭脳《あたま》が大変よくて、翻訳なんか上手なんですって。この人が突然行方不明になったんですわ。おかみさんが心配して、このおかみさんの写真も出ていましたがそりゃ別嬪《べっぴん》よ。あたし位かって、冗談いいっこなしよ。そのおかみさんが方々探しても見つからないので警察へ届けたの。そうすると何でも家出してから四、五日目におかみさん宛てに手紙が来て、余儀ない事情で二、三週間家に帰らないが、決して心配する事はない、愉快に暮らしているからって、手紙の中にはお金が入っていたのですって、警察でもうっちゃっといたらしいの。そうすると手紙通り三週間目かにブラリと元気のいい顔をして帰って来たのよ。警察でもいろいろ聞いたらしいけれども、ハッキリした事はいわなかったんですって。その時はそれでよかったんですけれども、一カ月経つとまた家出をしたの。二、三週で帰ってくると置き手紙がしてあったので、今度はおかみさんも騒がないでいると、二週間程すると今度は蒼い顔をして帰って来たんですって。三度目が大変なの、例によって二、三日留守にしたと思うと清水の爺さんの宅《うち》で切り傷を拵《こしら》えて気絶していたの。その時は何でも爺さんに翻訳の頼まれものをしていたらしいのですが、その晩に強盗が入ったの、人の宅だから黙ってりゃよいのに抵抗したんでしょう。切られた上に打《ぶ》たれて気絶しちゃったの。傷は浅かったんだけれども、ひどくぶたれたんですね。警察でも随分調べたけれども、手掛かりがちっともないの。それに清水の爺さんは盗人《ぬすっと》が恐いから随分用心しているので、そう容易には入れないはずだし、それに先にそら銀行の通帳の[#「通帳の」は底本では「通帳」]一件があったりして、てっきり例の無電小僧の仕業となったのよ。新聞でもそう書き立てたの。そしたらそりゃ[#「そりゃ」は底本では「そりぁ」]無電小僧が怒ってね、新聞に投書したのよ。大胆な泥坊じゃないこと。俺は無電小僧なんて名乗った事はないが、人がそういうのは多分俺の事と思うが、そういってくれる通りどこから入ったか、どこから出たか分からぬように立ち働くのが俺の腕の勝《すぐ》れた所で、俺は人に姿を見られた事はない。況《いわん》や切れ物を振り回したり、傷を負わした事があるものか。少し不可解な事件が起こると、自分の無能を隠す為に、あれも無電小僧これも無電小僧と俺に責任を負わせるのはご免|蒙《こうむ》ると偉い剣幕なの。警察では躍起となって探したけれども、とうとう捕まんなかったわ。それからしばらくするとまた二晩程古田がいなくなったんですって。おかみさんも仕方がないから抛《ほう》って置くと、二晩目の夜中に、押入れの中でうんうん唸るような声が聞こえるのですって、気丈なおかみさんと見えて押入れを開けると、長持ちの中で人が唸っているようなので家政婦と二人で恐々開けると、現在のご亭主が後手に縛られて猿ぐつわをはめられていたんだって、可哀相に二昼夜程自分の家の長持ちに入っていたんだわ。半死半生になっていたのですって。可哀相に、何でも突然《いきなり》、後ろから来て縛られちゃったので、どんな奴にやられたのか少しも分からないというのです。今度こそ正真|贋《まが》いなしの無電小僧にやられたんだわ。これはほんとうでしょう。今度は無電小僧も新聞に投書しなかったから。それにしてもそれだけの事を家の人に気づかれないでよくやったものねぇ。
その古田がここへ来たというのでしょう。皆びっくりするのは当然《あたりまえ》だわ。
『ご覧なさい』内野さんはあっけに取られている皆の顔を見ながらいったの。『こうして開けてある本がみんな大形のドイツ語の本でしょう。抽斗《ひきだし》でもなんでも大きなものばかり抜いてあるでしょう。私はかねがね先生から聞いていましたが、先生のご研究を盗もうという奴があるのです。それで先生は書き上げると、秘密の場所に隠されるのです。先生のご研究は机の上を見ても分かる通り、みんなフルスカップに書いてあります。だから隠すにしても大形の本か大きい抽斗でなければならないのです。古田はドイツ語が読めます。だから彼はきっと先生のドイツ語で書かれた研究を盗み出そうという一味の一人に相違ないのです。彼は背が低い。そして何よりも動かすべからざる証拠はここに挟んである紙片です。彼は多くの本を調べて行くのにマゴつかないように、すんだ分には小さい紙片を挟んだのです。白紙のつもりであったのが、彼の翻訳の原稿の書き損ないでも入っていたと見えて、この反故《ほご》に彼の手蹟があります。私は実は古田にドイツ語を習った事があるので、彼の手蹟はよく知っています』
歯切れのいい口調で、まるで朗読しているような朗《ほが》らかな声で堂々というのでしょう。あたしすっかり聞き惚れちゃったわ。外の人もみんなそうだったの。ところがね。下村さんだけがね。この人はさっきから腕組みして考え込んでいたのですが、この時ちょっと内野さんの喋っている顔を見てニヤニヤと笑ったわ。でもすぐ元の顔になったから、気がついたのはきっとあたしだけだったでしょう。
検事さんも、古田の事は知っていたと見えて、内野さんの渡した紙片《かみきれ》を見ると、すぐ古田を捕まえに刑事をやったわ。清水の爺は相変わらず顔をゆがめて化石したように突っ立っていたわ。
『もう一本の文鎮を探す必要があるね』しばらくすると内野さんが下村さんにいったの。
『うん、確かに二本あるに相違ない。たとえわずかでも寸法が違うからね。しかしもう一本が鉄に鍍金《めっき》したものであるとしても、どうしてスリ替える事が出来るか。今落ちているのが鉄でなければ説明がつかない』下村さんは独り言のようにいったの。
『そうかッ』内野さんがそりゃ大きな声を出したわ。あたし飛び上がっちゃったわ。『君の考えは素敵だ。君、ニッケルでいいんだよ[#「ニッケルでいいんだよ」に傍点]。恐ろしい計画だったなあ。さあ天井裏だ』
こういうかと思うと、内野さんはたちまち窓にスルスルと昇って、庇《ひさし》に手をかけ洋館の屋根に上がって、あの汽車の日よけ窓のようなシャッターのはまっている小さい窓をはずし出したわ。下村さんもすぐ後から登ったわ。しばらくすると内野さんが天井裏へ入り込んだので、続いて下村さんも入ろうとすると、中から内野さんが何か渡したらしいの。しばらくすると二人で何だか重そうな電気の機械みたいなものを抱えて下りて来たわ。
『これがコイル、これがマグネットです。コイルに強力な電流を通じると、マグネットに強力な磁力が生じます。ちょっとやって見ましょう』内野さんは机の下を探し回って、太い電線を見つけてつないで、それから先刻《さっき》の壁のスイッチを押して、ニッケルの文鎮を傍へ持って行くと、パチッと音がして吸いついちゃった。あたし吃驚したわ。
『文鎮が鉄だったら、恐らく下村君は一時間も前に謎を解いたでしょう。純粋のニッケルが磁石に吸引せられる事はちょっと人の知らぬ事です。先生は天井裏にこれを仕掛けて、電流を通じて文鎮を天井に吸いつかせ、次に電流を切ってそれを自分の頸の上へ落としたのです。自殺です。さっきほらあの方の磁石が狂ったでしょう。あの時は偶然検事さんがこのスイッチを押して居られたので、磁石が机の方を指したのです。文鎮は二つ拵《こしら》えてあってかねて清水さんの指紋を取ってあった方を使ったのです。嫌疑が清水さんにかかるように仕組んであったのは十分なる理由《わけ》があるように思います。この機械の傍にこの通りもう一本のニッケルの文鎮と、そしてもう一通の先生の遺書がありました』
この遺書《かきおき》は警察宛てだったので、すぐ開けられたの。あたしは検事さんが読んでいる内にハラハラと熱い口惜《くや》し涙を流したわ。
『親愛なる警察官諸君。私はこの第二の遺書が私の死後幾日にして開かれるかを知らない。私が改めていうまでもなく、この遺書の見出される日はすなわち私の死が自殺である事が明らかになる日で、清水に対する嫌疑の晴れる日である。私はこの遺書の発見せられる時期が、彼清水が私に加えた暴戻《ぼうれい》に対する復讐に必要にして十分なる程度に、長からずかつ短からざるを祈る』
短過ぎたわ。先生が生きて復讐する事が出来ないで、死んで仇《あだ》をとろうとあれだけの苦心《くしん》をなすったのに、こうむざむざと見つけられるとは。あの業突張りに何故もっと大きな天罰が与えられないのでしょう。あたし涙が止めどなく出て仕方がなかったわ。皆の思いも同じでしょう。暗い顔をしてしばらくは誰も口を利くものがありません。
でも、後はもう古田の問題だけでしょう。殺人でなかったので検事さん達はホッとして帰り支度を始めたわ。清水は嬉しいんだか何だか気抜けしたようにポカンとしていましたっけ。
そうすると突然内野
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