ニッケルの文鎮
甲賀三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頂戴《ちょうだい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一晩|拘留《こうりゅう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「どんな風だか」は底本では「どんな風だが」]
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 ええ、お話しするわ、あたしどうせお喋りだわ。だけど、あんたほんとに誰にも話さないで頂戴《ちょうだい》。だってあたし、あの人に悪いんですもの。
 もう一年になるわね。去年のちょうど今頃、そうセルがそろそろ膚《はだ》寒くなってコレラ騒ぎが大分下火になった時分よ。去年といえば、随分嫌な年で、新聞には毎日のように、自殺だの人殺しだの発狂だのって、薄気味の悪い事ばかし、それにあんた知ってるでしょう。妙な泥坊の事、ね、そら希代《きたい》に大きな宅《うち》ばかり狙って、どこから入ってどこから出たのやらちっとも分からないのに、いつの間にか金目のものがなくなっていたり、用心すればする程面白がって、思いがけない方法で忍び込んだりして、どこからでも入るからまるでラジオの様だというので、新聞に無電《ラジオ》小僧なんて書かれて随分騒ぎだったでしょう。それにとうとうしまいには御恩《ごおん》になった先生があの死に様《よう》でしょう。あたしほんとに悲観しちゃったわ。
 無電小僧といえば、あんたあの話知ってる? 去年の春だったか牛込《うしごめ》のある邸《やしき》の郵便受けの中に銀行の通帳と印形《いんぎょう》が入れてあって、昔借り放しにしていたのをお返しするって丁寧な添え手紙がしてあったという話。新聞に出てたでしょう。あそこの主人は清水ってお爺《じい》さんで、何とか議員をして上面《うわべ》は立派な紳士なんだけれども、実は卑しい身分から成り上がった成金で、慈悲《じひ》も人情もない高利貸しなのよ。今じゃもう警察のご厄介《やっかい》になって、おまけに呆《ぼ》けちまって、誰も見向きもしないけれども、ほんとにひどい奴で、先生の亡くなられたのも、つまりあの業突張《ごうつくば》りの為だわ。そんな欲張り爺《じじい》だから、手前んとこの郵便函に、聞いた事もない人の通帳が入れてあったのを、普通の人なら気味悪がって届けるものを、昔貸し倒れになったのを返して来たんだろうなんてノコノコ銀行に出かけたんだわ。ところが銀行では盗難の届けの出ていた所だから、たちまち爺さんは警察へ突き出されちゃったの。何べんもいうようだけれど、爺さんは欲張りで、倹約《けんやく》だなんて大金持ちの癖に、いつでも薄汚い身装《なり》をしているもんだから、何とか議員だって警察には通じやしないわ。それでとうとう一晩|拘留《こうりゅう》させられたのよ。痛快じゃないこと、ところが泣きっ面に蜂というのは爺さんが警察に宿《とま》っている晩に、無電小僧に入られたのよ。この事は新聞に出なかったんだけれども、訳があってあたしは知ってるの。郵便受けの中へ銀行の通帳を入れたのも無電小僧の策略だったんだわ。ほんとにいい気味ったらありゃしない。
 あたしはほんとにこの爺が嫌いで仕方がなかったんだけれども、月のうちに一、二度はきっと宅《うち》へやって来るのよ。そうしちゃ診察所の帳面を調べたり、書生さん達やあたしに用をいいつけたり、そりゃ横柄なの。先生はあんな優しい方でしょう。黙って平気で見ていらっしゃるんでしょう。あたし歯掻《はが》ゆくって仕方がなかったわ。あたし馬鹿ね。一年もご奉公しながら、なんで清水の業突張りがこんな事をするのか分からなかったの。男はやはり賢いわ。着物の柄を見る事なんか駄目だけれどもね。下村さんや内野さんは、――書生さんの名よ、――二人ともあたしより後から来たんだけれども、ちゃんと分かったと見えて、教えてくれたわ。何でも先生がご研究のお金に困って、清水からお金を借りなすったんだって、それがひどい仕組みで、どうしても返し切れないようになっていて、利に利が嵩《かさ》んで、とても大変なお金になったんですって。それでお宅の方も診察所の方もすっかり抵当に取られて、月々の収入も大方は清水に取られてしまって、先生の方へはホンのポッチリしか入らないんですって。会計の方は一切清水が握っていて、いわば先生は清水の懐《ふところ》を肥やす為に、毎日働いていなすったんだわ。先生はいろいろご本をお書きになって、世界に知られた方だったし、ご診察の方も名人だったんですから、名誉を思えばこそ、清水にそんなひどい事をされても黙っていなすったんだわ。それに奥様は永いご病気でずっと床に着き通しですものね。あたしこの頃になって先生のお心持ちを察するとほんとに自然《ひとりで》に涙が出て来るわ。
 普通の人間だったら、どうせいくら稼《かせ》いだって、他人の懐を肥やすだけですもの、働くのもいい加減嫌になるはずだけれども、先生は患者さんにはそれはご親切だし、前いったように、診察は名人だったから、なかなか流行《はや》ったわ。でもね、亡くなりなすった少し前から一層研究の方にお凝りになったので、自然患者さんも前程ではなかったようだったわ。ですから奉公人の数も、あたしの来た当座とは少し減ったの。診察所の方は薬剤師が一人と会計の爺さんとで、この二人は通い、その外に先刻《さっき》いった下村さんと内野さんの書生が二人。外に看護婦が二人。これは随分顔ぶれが変わったわ。しかし看護婦なんてものは起きてるうちは病人を豚の子かなんぞのように扱って、寝てしまえば自分が肥った豚みたいにグウグウ鼾《いびき》を掻いて、それこそ蹴飛ばしたって眼を醒ましやしないんだから、誰だって構やしない事よ。
 奥の方はご飯たきが一人、奥様付きが一人、それにあたしが先生付き。ええあたしは旦那様とはいわずに先生っていってたの。ご飯たきはもういい加減の婆さんで、台所ばかりに居たし、奥様付きはお米さんといって、いっぺん嫁《かたづ》いた人であたしよりは十位年上でしょう。おとなしい人で、それに寝た切りの奥様に付いているのですもの。沁々《しみじみ》話す暇もなかったわ。ええ、お子さんはなかったの。そういう訳で、診察所の方の人達と口を利くのはあたしだけといってよい位だったわ。そりゃああたしがお侠《きゃん》だからだけれども、先生の小間使いですもの、そりゃどうしたって診察所との交渉が多いわよ。ええ、こりゃ漢語よ。
 それで書生さんの下村さんと内野さんとがとても素敵なの。そりゃいい男なのよ。あら、そんな事いうなら、もう話を止《よ》すわよ。
 二人とも二十四、五だったわ。内野さんがなんでも三月か四月に来て、それから一月程して下村さんが来たの。二人とも江戸っ子だったわ。無論お互いに前は知りっこなし。よく旨く揃ったものだわね。どっちもいい体格でね。肉体美っていうのね、デッブリ肥っているんでなしに、スラリとしているんだけれども、肉が締まっているんだわ。下村さんの方は色が白くてニコニコすると、そりゃ愛嬌があるんだけれども、眼許に少し険があってね、どっちかというと考え深そうな顔でした。内野さんは少し浅黒い方で、ハイカラな言葉でいうと、そりゃ明るい顔なの、だからまあ、下村さんの前では打ち解けて話しても心の隅にはどっかこう四角張った所が残っているような気がするのが、内野さんの前では心底《しんそこ》から打ち解けて気が許せるという位の違いはあるの。ええ、そりゃまあどっちかといえば、内野さんの方が好きだったけれども、下村さんだって好きだし、あたし困るわ。あたしだけじゃなくてよ。誰でもきっと困ると思うわ。学問の事はあたしには判らないけれども、二人とも何でもよく知っているらしいのよ、頭脳《あたま》だって両方大したもんよ。むずかしい事をいってよく議論するの。昼間ならまだよいけれど、夜遅くまで書生部屋でやるんでしょう。あたし寝られなくって困った事があったわ。あたしにはよく分からないけれども二人ともちっとばかし、ほら、あの社会主義とかいうんでないかと思ったわ。
 先生はあとから考えて見ると、あの頃少し変だったわ。先の短い人のように、一分一秒を惜しんでせっせと暇さえあれば書斎に籠《こも》って書き物ばかししてらっしたし、それにこうなんとなく打ち沈んで元気がなかったし、あたしなんだか近い内に変わった事が起こりそうで仕方がなかったわ。
 あの晩ね。宵《よい》の内《うち》に内野さんと下村さんの二人でそりゃ大議論をしたのよ。先生は書斎でいつも通りご勉強でしょう。あたしお次室《つぎ》に坐っていると、書生部屋で二人が大声でいい争っているのがよく聞こえるのでしょう。あたし喧嘩になりやしないかと思って心配して、止めに行こうかと思っているうちに、先生がお呼びでしょう。ハーイってお部屋へゆくと、下村と内野を呼んで来いってんでしょう。あたしきっと叱られるんだろうと思ってヒヤリとしたわ。二人が入ってしまうと、あたし次室で聞き耳を立てて居たんだけれども、大分しんみりした話と見えて、ちっとも聞こえないの。そのうちにお手が鳴って紅茶を持っておいでというのでしょう。様子を見ると叱られている風でもないので、あたし安心したわ。
 紅茶を上げてから、そう十一時頃でしょう。二人は書生部屋へ帰って寝ちゃったの。先生はまだご研究に起きていらしったようでしたが、もう寝てもよいとおっしゃったので、部屋へ下がって寝たのよ。あたしウトウトとして、フト眼を覚ますと、書斎の方で何だか変な物音がするのよ。先生がまだ起きていらっしゃるのだろうと思って、寝返りを打とうと思って、廊下の方を見ると真っ暗でしょう。書斎に灯《あかり》がついていれば、それが差して、障子が白く闇に浮かぶはずなんですもの。ハッと思うと、眼がすっかり覚めてしまったの。念のため手探りで障子を開けて見ると真っ暗でしょう。その途端に確かに書斎から人の出て来るような気配がしたの。あたし震え上がっちゃったわ。床の中へ潜《もぐ》り込んで蒲団を被《かぶ》っていたの。しばらくすると辺りはしーんとして、もう物音も何も聞こえないでしょう。あたし恐々《こわごわ》起きて、電灯を点けて見たの。それからまたしばらく息を凝らしていたけれども別に何の変わった事もないので、少し元気が出て来て、廊下伝いに書生部屋へ出て、廊下の外から、下村さん内野さんと呼んだの。二人とも平常《ふだん》はそりゃ目覚《めざと》いんだけれども、その時に限ってグウグウ鼾を掻いているので、とても駄目だと思って、部屋へ帰って寝てしまったの。とても書斎の方へ行く元気はなかったわ。
 なかなか寝つかれなくて、それでも明け方にトロトロとしたでしょう。外が少し白んで来たと思うともう起き上がって、気になっていたもんだから先生のお寝みになる部屋を第一番に覗いて見ると、前の晩にあたしが取って置いた通り、床がチャンとして、先生のお休みになった様子がないじゃありませんか。あたしはハッと思って、急いで書斎へ行って、扉《ドア》をコツコツ叩《たた》いて見ても返事がないでしょう。胸をドキンドキンさせながら、恐々扉を開けてみたの。そうすると先生は背向《うしろむ》きに椅子にかけて正面の大きな書き物机にもたれて、ガックリとこう転《うた》た寝でも遊ばしているような恰好なんでしょう。先生、先生と呼んで見たけれどもちっとも返辞がありません。あたしもう耐《たま》らなく不安になって、書生部屋へ駈けつけて、二人を起こしたの。内野さんも下村さんもなかなか起きないんですものね。随分困ったわ。やっと眼を醒ました二人に先生が変だというと、二人はまるで弦《つる》から放れた矢のように部屋を飛び出したわ。あたしが後から追い駈けてゆくと、扉の所で二人が話しているの。
『君、ちょっと待ちたまえ』下村さんの声、『手袋をはめて入ろうじゃないか。誰かこの部屋を荒らしたようだから、指紋を消してしまうといけない』
 内野さんも異議がなかったと見えて、二人とも書生部屋に引き返して、手袋をはめて書斎へ入ったの。変に丁寧な事をすると思ったわ。あたしもあとからそっと部屋に入ると驚いたわ。本箱の
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