夭折した富永
中原中也

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)攣《ちぢ》れた

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(例)重[#「重」に「ママ」の注記]
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 ほつそりと、だが骨組はしつかりしてゐた、その躯幹の上に、小さな頭が載つかつてゐた。赤い攣《ちぢ》れた髪毛が額に迫り、その下で紅と栗との軟い顔がほつとり上気してゐる。黒く澄んだ、黄楊《つげ》の葉の目が、やさしく、ただしシニカルでありたさうに折々見上げる。
 彼は今日、重[#「重」に「ママ」の注記]欝なのだ。卓子《テーブル》に肘を突いたまゝ、ゆつくり煙を揚げてゐる。尤《もつと》も喫つてゐるものだけはうまさうだが。戸外は――地面は半ば乾いてあつたかい、空を風は、目標ありげにとぶ、梅雨期の或る一日だ。
 そして今彼に対面する者は、彼をただ友人とのみ考へるなら、余りに肉親的な彼の温柔性に辟易《へきえき》しなければならない破目になるだらう。さしづめ、彼は教養ある「姉さん」なのだが、しかしそれにしては、ほんの少しながら物質観味の混つた、自我がのぞくのが邪魔になる。
 友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。

 人が、真率にして齢を重ねる時、「習慣」の存在に対して次第に寛容になることは、自然なことである。そしてそれは、それまではよろしい。けれどもやがて彼がその寛容を手段の如く把持するに至つて、彼は堕落である。だが、寛容であることは自説的であるよりも遙かに易しい。良心は遅かれ早かれ、磨滅する性質のものだ。それから、人々によつて真面目な手記と見做されてゐるものはすべて、これら寛容な人達、殊には老人の手によつて遺された。
 真率にして富永は齢を重ねていつた。寛容を識つた。ところで代[#「代」に「ママ」の注記]は甚だしいヂャナリズムでいつぱいだつた。彼は、自我崇拝主義者(となつた)であつた。智的享楽性に乏しくされた。ユーモアを虐待することと、人格者であるといふことと、平和と苟安《こうあん》とは同義で通用する日本の、そして帝都は彼の育つた雰囲気であつた。かかる時自我崇拝主義は微笑んだ――。
 ボオドレヱルは「自我崇拝閣下」と綽名《あだな》された。けれども一方、会衆の前に飄然《へうぜん》として出て来て、「君、赤ン坊の脳
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