気だ。昨日と今日は、床のそばに机を出して貰つて、レンブラントの素描を模写した。友達の住所録も、整理した。此の分では直きに、庭くらゐは歩けるやうになるだらう。
兄さん、僕は元気だ。兄さんもどうぞ元気でゐてくれ。』それから一寸置いて、ちがつた字体で、『やつぱり迷はず和漢の療法を守つてゐればいいのだね。西洋医学なぞクソでもくらへだ』とあつた。
私は喜んだ。しかしほんとだらうか。だがやつぱり不治なぞといふことはないだらうと、私は猶|一縷《いちる》の望みは消さないで持つてゐたことに、誇りをさへ感じた。秋の日を受けた、弟の部屋の縁側は明るく、痩せ細つた足に足袋を穿いて、机に向つてゐる弟の姿が、庭の松の木や青空なぞと一緒に見えた。
『あれが中日和といふものだつたのでせう』と母は、埋葬を終へた日の宵、私達四人の兄弟がゐる所で云つた。
『中日和つて何』と、せきこんで末の弟は訊いた。
『死ぬ前に、たいがいその一寸前には、気持のいい日があるものなんです。それを中日和。』
友達を訪ねて、誘ひ出し、豪徳寺の或るカフエーに行つて、ビールを飲んだ。その晩は急に大雨となり、風もひどく、飲んでる最中二度ばかりも停電した。客の少ない晩で、二階にゐるのは、私と友達と二人きりであつた。女給達は、閑《ひま》なもので、四五人も私達のそばに来てゐた。そして、てんでに流行歌を、外は風や雨なので、大きい声で唄つてゐた。急に気温が低くなり、私は少々寒くなつたので、やがて私も唄ひ出した。やがてコックが上つて来て、我々の部屋の五つばかりの電灯を、三つも消してゆくと、我等の唄声は、益々大きく乱暴になつてゆくのであつた。
テーブルも椅子も、バカツ高く、湿つた床は板張りで、四間に五間のその部屋は、厩《うまや》のやうな感じがした。
そこを出て、大降りの中を歩いて、私と友達とは豪徳寺の駅で別れた。ガタガタ慄へながら下宿に帰つて、大急ぎで服を脱いで、十五分もボンやりと部屋の真ン中で煙草を吹かしてゐると、電報が来た。『高村さん電報です』と、下宿のお主婦《かみ》は、何時もながらの植民地帰りの寡婦らしい硬い声で、それでも弟の死だらうと、大概は見当が付いてゐたものとみえ、流石《さすが》に眼を伏せて、梯子段の中途から、ソツと電報を投込んだ。
『タイザウシス』
私はその電報を持つて、部屋の真ン中に立つたまゝ、地鳴りでも聞いてゐるやうな恰好で、事実なのだ、これは事実なのだと、声もなく呟いてゐるのであつた。
時計をみた。十一時二十分であつた。もう汽車はない。明日一番で立たう。
だがなあ……と悲しい心の隅にはまた、へんに閑のある心があつて、こんなことをも思つてみるのであつた。死んでから急いだつてなんにならう……だがこんなことを考へるのも可笑《おか》しい、うん、可笑しい。それにしても、――私はまた更《あらた》めて思ふのであつた、弟は既に旅立つてゐる。弟はもう此の世のものではないのである!――私は眼を遠くに向けた。硝子障子の向ふには雨戸があつた。もう閉めてゐたのであつた。柱も壁も、何時もどほりであつた、そしてそれはさうであるに違ひなかつた。
私は同宿人のゐないことが、つまり六畳と三畳二間きりのその二階が私一人のものであることが、どんなに嬉しかつたか知れはしない。存分に悲しむために、私は寝台にもぐつて、頭から毛布をヒツかぶつた。息がつまりさうであつた。が、それがなんであらう、私がビールを飲んでゐる時、弟は最期の苦しみを戦つてゐた!
火葬《やき》場からの帰途、それは薄曇りの日であつたが、白つぽい道の上を歩きながら、死んだ弟の次の弟が、訊かれたでもないのに、フト語り始めるのであつた。『泰ちやんは、大きな声で色んなことを云ひ出したよ。医者の奴は、脳にまゐりましたと云つたよ。それから、直ぐに麻痺させる注射をした。……だがあの時は、大きい声で云つたことは、泰ちやんの気象を全く現はしてゐたよ。』『あれあ実際……脳に来たのでもなんでもなかつたんだよ。』とその一つ下の弟は続けて、そつぽを向くのであつた。
『大きい声で何を云つたんだい。』
『それあ』と云つて上の弟は、一寸どれから云はうかとしたのであつた。云へるものか、併し……何か云はう。
『梶川(医者の姓)、おまへは俺を殺す! ……『実際、大きい声だつたよ』と云つて弟は涙をゴマ化すのであつた。
道は少しのデコボコだつたが、私は前々夜来睡眠をとつてゐなかつたので、僅かのデコボコにも足許がフラフラし、頭もフラフラした。冷たい軽い風のある日で、ワイシャツの袖口あたりに、ウブ毛の風に靡くのが感じられるやうなふうであつたことを記憶してゐる。道に沿つたお寺の、白い塀壁の表面のウス黒い埃りや、そこに書いてあつた〈へのへのもへじ〉なぞも、目に留つてゐて離れない。その塀に沿つた、紙や泡《アブク》のヒヨロヒヨロと顫《ふる》へてゐるドブは、それを見ながら歩くことが嫌ではなかつた。
焼香の返礼を、私が如何に大真面目に勤めたかは、今考へると滑稽でもある。
母は、医者の所へは、一番最後にゆつくりと出掛けて行つて、その時はお礼の品も持つて行くのだと吩付《いひつ》けた。『ええ』、とは云つたものの医者の顔をジツクリと思ひ浮べてみるのであつた。
その日が来た。行つたのは午後の四時頃であつた。その日もやつぱり曇つてゐて、十月末の日はもう、医者の玄関に這入ると仄暗かつた。
挨拶をすますと、まあ一寸上らないかと云ふ。『ゆつくり弟さんの話でもしませう。』
偶に帰つて来てゐる、自分の友人(父は生前その医者の友達であつた)の長男は、どんな男だらうかといふ、私に対するイヤな好奇心もあつたのだが、若い患者に、あなたの病気は癒らないのだといふことを何か悟つたことでもあるやうに思つたりする此の田舎医者は、恰度《ちやうど》その時患者もゐなく、夕飯前の時刻を、ボンヤリしてゐたのであつてみれば、上つて話せといふその言葉も、可なり自然なものであつた。私にしてからが数日来の色々のお勤めが、やつと茲で終りを告げるのであつてみれば、此の町に、今は自分の友人とてもない身の、フラフラツと、久しぶりにゆつくり話さうといふ気にもなつたし又、先に此の医者が死んだ弟にあなたは死ぬんだなぞといつた時、ビツクリさせられた印象が、何か此の田舎医者の中に追求してみたいといふ気持を、漠然と抱かせてゐたので、瞬時躊躇はしたものの、よし、では上つてやらうといふ気を起したのであつた。
『では』と云つて、私が背ろの硝子戸を締めると、医者の奥さんは、ニッコリとした。『獲物がかゝつた……』云つてみればさうなのである。
更めてまた哀悼の辞を述べた後、此の医者は、私の東京に於ける生活の模様を、何かと訊くのであつた。やがてそれも絶えると、僕は年齢の二十余りも違ふ大人の前に罷《まか》り出た青年の、あの後悔を感ずるのであつた。代議士の妾宅であつたその家は、却々《なかなか》立派であつたので、私は『結構なお住ひです』なぞと、柄にもないことを云つて、又あらたな後悔をするのであつた。
やがて酒はどうだといふ。私はまだ死んだ弟の仇打をしなければならないと、云つてみればそのやうな気持を、此の医者と対座して以来益々抱いてゐたので、さりとてその緒口も見付からない時であつたので、ええ、戴きますとさう云つた。その云ひ方がやけにまた力を籠めてゐたので、奥さんは医者を見て妙な顔付をした。『うん、持つて来い。』奥さんは酒の仕度に行つた。
読者よ、何卒《なにとぞ》茲に見られる私の執拗を咎めないで下さい。お咎めになるまでもなく、私自身かういふ点では十分に罰せられてゐる。しかしそれにしても、もし今後私が少々人物を書き分けることができるとすれば、それは此の執拗を以て、辛いながらも人に接し、小胆なくせに無遠慮でもあるからなのです。
酔ひが廻るに従つて、私はまた例の如く喋舌りまくした[#「した」に「ママ」の注記]。その私はげにも大馬鹿三太郎であつた。後ではまた慚愧《ざんき》するのだとも思はないでもないのだが、これが私の人に親炙《しんしや》したい気持の満たし方であり又、かくすることによつて私は人に懐《なつ》き、人を多少とも解するのである。その大馬鹿三太郎を抑制することは今、この医者の友人の長男を可笑しきものとしないためには役立つのであるが、自己表現欲、或ひは又智的好奇心のためには、ただただ害があるのである。されば、ままよ。損をすることには馴れてゐる。尠くともお酒が這入つてゐれば、淡白といふか愚かといふか、人が体面を慮《おもんばか》つて遠慮するていのことくらゐは、ても眼中にないのである。
私はそこで、『貴方が弟を到底助からないと信じていらつしやることを知つた後では、看護婦でもいい、卑しい女でもいい、ええ、つまり卑しい女の方がいい、ともかく何等かの点で弟が好きになる女と、忽ち結婚させたかつた』とも云ひ、『どうせ死ぬと、仮令《たとへ》分つてゐても、患者に云ひ聴かせることはお願ひですからやめて下さい。』とも云つた。
すると医者はまた、例の悟りを参照しようとするから、『いいえ、それは間違つてゐます。諦めが大事であるとはいへ、諦めがつかないことが直ちに愚かであるとは申せません。此の世に乞食はゐるものだといふことが真でも、では若干は乞食もゐるやうにすべき理由はないのと同じことでございます』と、死んだ弟を思へば、弟が身を以て感ぜしめられた事を種に、私はまたなんたる狂態だらうと、かにかくに自責の情が湧くのでもあつたが、独りゐては、あれやこれやと迷ひ夢みる私であれど、人に対しては男性的といふか論理的といふか、思ひ切りよく理性的であるのであつた。
奥さんは、もう出ては来ず、奥の方で琵琶を掻きならし、その子供のない太つちよの、快活無比の奥さんが鳴らす琵琶の音は少々ぞんざいで、嘲弄されてゐるやうな気持もされるのであつた。が、こんな気持を咬殺《かみころ》すことにも、私は今云つたやうに可なり男性的である。
而も猶、一寸立つて便所に行かうとすると、途中で曲つてゐる梯子段を踏み過《あやま》つて、私は四五段も辷り落ち、肘《ひぢ》をしたたか磨《す》り剥いたのだが、驚いてとんで来た医者に、抱き取られながらも、いい気味だいい気味だ、死んだ弟を忘れてゐたから罰が当つたのだと、急にまた千万無量な思ひをするのであつた。心臟よ、ドキドキと鳴れ、肘よ痛め。これが死んだ弟への懺悔の一端ともなれば、ああなんと、嬉しいことであらう!……
酒は顔全面にのぼつて来て、頭の心《しん》はヅキヅキした。
それからなほ三十分も飲んだ後、辞して立たうとすると、先刻は腰も打つたとみえ、腰が痛くてよろけさうになり、医者に助けられて自動車に入れられた時は、なんとも羞《はづか》しく、玄関に立つて可笑しさを怺《こら》へてゐた奥さんの顔は、自動車が田圃の中の道路を走つてゐる間中、眼に浮かぶのであつた。
家に著くや無理に、気持を引き立てて、腰の痛みをみせまいやうに一心に姿勢を作つて、『ただ今』といと冷然と云つた。
『まあまあ、沢山に飲んで。また今迄何のお話をしていたのでせう。』と母はその貧血の顔をのぞけて私を感じ取るのであつた。
『いいえただ、泰三の思ひ出話ばかりしてゐました。先生は僕の東京の話なぞ訊くものですから、分りよく納得のゆくやうに話しました。』
母は悲しげに私から眼を離すのであつた。
『もうみんな休みましたね』云ひながら私は私の寝床のある離れの方に歩いた。
その部屋には、祖母と私の床があつたのであるが、私が部屋に這入ると、祖母は目を覚まし、『おお/\御苦労だつた』と云つた。
悔恨は胸に迫つて、仰《あふむき》に寝ても、横になつても寝付かれなかつた。一町ばかり先にある、今自分の乗つた自動車の通つて来た道を、オートバイが遠雷のやうに近づき、やがて消えていつた。
[#地から1字上げ](一九三三・一〇・一八)
底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「中原中也
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング