弟は、チラリとその時私を見た。
さうだ、さうだと、近頃でもその時のことを思ひ出すと、わけても酒をあふつた夜なぞ、独りになると思ふのだ、私はシラジラしい男だ。――人々よ、君等には私をシラジラしい男といふ権利がある!……
だがまた、これは場違ひな話ではあるが、さうした私の心理の傾きを、或る時は、私がメタフィジックな函数を持ち客観性を失はない所以だと思ふのであつてみれば、そしてそれも亦、まんざら理由のないことでもないのであつてみれば、私はでは、どうした心構へをとればよいのであらうか?
だからさ、だから『悲しみのみ永遠にして』と、ヴィニィの言ふのは本当だなぞと、考へることは出来るにしても、はやさう考へる段となれば、早くも私の悲しみはゴマ化されてゐるに過ぎない。……
だから、だから人間は、気狂ひにならないために概念作用を持つてゐる……か。
さうかさうかだ。だが茲《ここ》に到つて自体考へなぞといふものが、凡そなつちやあゐないものであることを、思はないではゐられない。
『その※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《おでき》は、と医者は席を立たうと思つたかして、私の方に向き直ると云ふのであつた。放つて置かれゝば何時か自然に取れます。手術して取れないこともありませんが、痕跡《あと》が残りますしそれに、さうお邪魔でもないでせう。』
弟は私がそれを聞いてる間、ズツと私を視守つてゐた。医者はもう一度弟の方を向き、『ではまた明日《みやうにち》。お静かにしていらつしやい。』弟は医者の顔をジツと視てゐるだけで、一言も云はなかつた。
私は何か、心残りであつた。死を観念させられてゐる弟の前で、一寸した※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》のことなぞ持出したことはと、そんな気持もするのであつた。
医者が帰つた後で、うつかりまた耳の下へ手をやつてゐるのを、弟の眼がマジマジとするので気が付いて、急に手を下ろすと、一瞬弟の眼は後悔の色を浮かべるのであつた。暑い日で、扇風器が廻つてゐたが、医者が帰つたので、少しそれをとめてくれと弟は云つた。やがてぐるりと寝返りをうつて、向ふへ向いたが、その時の頬のあたりは、今でも思ひ出すと涙が滲む。
九月八日の宵であつた。私はその夜の汽車で東京に向けて立つことにしてゐた。弟の寝てゐる蚊帳《かや》のそばにお膳を出して、
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