子屋が鼻風邪でも引いたやうに見える。入口の暗いカフヱーの、中から唄が聞こえてゐる。それからもう直ぐ畑道だ、蛙が鳴いてゐる。ゴーツと鳴つて、電車がトラホームのやうに走つてゆく。月は高く、やつぱり流れてゐる。
暗い玄関に這入ると、夕刊がパシヤリと落ちてゐる。それを拾ひ上げると、その下から葉書が出て来た。
その後御無沙汰。一昨日可なりひどい胃ケイレンをやつて以来、お酒は止めです。試験の成績が分りました。予想通り二科目落第。云々。
静かな夜である。誰ももう通らない。――女と男が話しながらやつて来る。めうにクン/\云つてゐる。女事務員と腰弁くらゐの所だ。勿論恋仲だ。シヤツキリはしてゐねえ。私の家が道の角にあるものだから、私の家の傍では歩調をゆるめて通つてゐる。
何にも聞きとれない。恐らく御当人達にも聞こえ合つてはゐない。クンクン云つてゐる。
夢みるだの、イマジネーションだの、諷刺だのアレゴリーだのと、人は云ふが、大体私にはそんなことは分らない。私の頭の中はもはや無一文だ。昔は代数も幾何もやつたのだが、今は何にも覚えてゐない。
それでも結構生きながらへることは嬉しいのだが、嬉しいだけぢやア済まないものなら、どうか一つ私に意義ある仕事を教へて呉れる人はゐないか。抑々《そもそも》私は測鉛のやうに、身自らの重量に浸つてゐることのほか、何等の興味を感じない。
世には人生を、己が野心の餌食と心得て、くたぶれずに五十年間生きる者もある。
或は又、己が信念によつて、無私な動機で五十年間仕事する人もある。
私はといへば、人生を己が野心の対象物と心得ても猶くたびれない程虎でもなく、かといつて己が信念なぞといふものは、格別形態を採る程湧き出ても来ぬ。何にもしなければ怠け者といふだけの話で、ともかく何かしようとすれば、ほんのおちよつかい[#「おちよつかい」に傍点]程度のことしか出来ぬ。所詮はくたばれア、いちばん似合つてるのかも知れないけれど、月が見えれば愉しいし、雲くらゐ漠としたのでよけれア希望だつて湧きもするんだ。それを形態化さうなぞと思へばこそ額に皺も寄せるのだが、感ずることと造ることとは真反対のはたらきだとはよう云うた、おかげで私はスランプだ。
尤もスランプだからといつて、慌てもしない泣きもしない。消極的な修養なら、積みすぎるくらゐ積んでゐる。慎《つつま》しく生きてゐるん
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