くのである。斯かる時詩は猶男の子として誕生してゐないとあつては、情ないことでもあるが、ただ此の場合、短歌や俳句といふ詩歌の形態が衰亡することを以て、詩歌そのものの衰亡となすならば早計であらう。人が、詩歌といふ「ああいふもの」を欲しくなる時がある限り、詩歌といふものは存するのである。
「散文が結果的に一つのイデーの下に凝集してゐるに対し、詩は一つのイデーから出発する」といふ河上氏の言を借用するとして、その真偽如何を問はず、詩が欲しくなる時、詩人は「一つのイデーから出発」してゐるもの即ち詩に赴くのであつて、他の物へではない。
散文が、詩にとつて代るのだらうと云ふ人があるかも知れぬが(人間の歌の呼吸が、散文程に長いものとなり得るとは一寸考へられないことからして、散文が詩にとつて変るなぞといふことは荒唐なことだとしか思へない、)もし小説が近頃流行するのでそんな気がするとならそれは小説の要求が強くなつたといふよりも、小説といふものを憧憬する青年が多くなつたといふことなぞ云つて置かう。
で、序でに、論旨を現代生活と連関させてみるならば、現在我が国が、芸術に対する関心を余り持つてをらぬといふのならば私にも分る。だがもし、音楽よりも文学にだとか、文学よりも絵画に関心は向いてゐるといふやうなことならば、此の場合私には分らない。蓋し、今仮りに文学よりも絵画の方により多くの関心が注がれてゐると云ひたい人があつたとすれば、それはその人自身が文学よりも絵画の方を好きなのであらう。
何やかと少しく話は乱れたが、何かしら道具を以て[#「何かしら道具を以て」に傍点]作されるものが詩であつて、それは、その詩の伝統を習得することによつて習得されるものである。それはその伝統の保守と超克とを問はず、伝統あつての話であり、新体詩と呼ばれて以来の詩の伝統は、猶貧しいものであるから、それを本場からよくソシヤクしなければならないと自ら鞭打したかつた迄である。
紙数に余裕があるので、何かのために、左の言葉を手帖より抜書きして擱筆することとする。
「此の世の中から、もののあはれを除いたら、あとはもう意味もない退屈、従つて憔燥が残るばかりであらう。それで、今仮に詩的性情を持つ一青年があつたとして、かの成巧せる実業家、成巧せる政治家が、子供や孫、一族郎党でもゐなかつたとしたら、どんなに退屈するものであるかは、一寸理解され難いのである。
成巧といふことは、悪い例で云へば、成巧した、さて人々に尊敬させたい、とか、では、チツト道楽を始めよう、とか、直ちに次の事業なり計画なりに取かゝるのでない限り自体さうした経過を採るものなのである。而も、さういふ経過を採る所以のものは、人間が、本来先づもののあはれを求める傾向を有するからである。
即ち、幸福の実質といふのは、もののあはれである。
此の事は、誰にも彼にも、云ふと云はないと感じられてはゐる。而も、通念には、なつてゐない。
[#地から2字上げ](一九三四、六、三)
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
初出:「文学界」
1934(昭和9)年7月号
入力:村松洋一
校正:小林繁雄
2009年5月5日作成
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