くらむすめ》の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜《よる》、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……
思ひ出
お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか
金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬《みさき》の端に
やつて来たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。
岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々《あかあか》してゐた
しかも工場は、音とてなかつた
煉瓦工場に、腰をば据ゑて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。
沖の方では波が鳴らうと、
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた
ポカポカポカポカ暖かだつたよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼《な》いてた
鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジッとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた
窓の硝子は陽をうけてても
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
* *
* *
煉瓦工場は、その後|廃《すた》れて、
煉瓦工場は、死んでしまつた
煉瓦工場の、窓も硝子《ガラス》も、
今は毀《こは》れてゐようといふもの
煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は来ない
煉瓦工場に、僕も行かない
嘗《かつ》て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、たゞ立つてゐる
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
相当ぶきみな、煙突でさへ
今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
この尨大《ぼうだい》な、古強者《ふるつはもの》が
時々恨む、その眼は怖い
その眼は怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯《うつむ》き、案じてゐれば
僕の胸さへ、波を打つのだ
残 暑
畳の上に、寝ころばう、
蝿《はへ》はブンブン 唸つてる
畳ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ
それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ
覚めたのは 夕方ちかく
まだかなかな[#「かなかな」に傍点]は 啼《な》いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた
打水が、樹々の下枝《しづえ》の葉の尖《さき》に
光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた
除夜の鐘
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜《よる》の空気を顫《ふる》はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
それは寺院の森の霧《きら》つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……
その時子供は父母の膝下《ひざもと》で蕎麦《そば》を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜《よる》の空気を顫《ふる》はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
雪の賦
雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾《おほたかげんご》の頃にも降つた……
幾多《あまた》々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
ロシアの田舎の別荘の、
矢来の彼方《かなた》に見る雪は、
うんざりする程《ほど》永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
わが半生
私は随分苦労して来た。
それがどうした苦労であつたか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果して価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。
とにかく私は苦労して来た。
苦労して来たことであつた!
そして、今、此処《ここ》、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。
外《そと》では今宵《こよい》、木の葉がそよぐ。
はるかな気持の、春の宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐つたまんまで、死んでゆくのだ。
独身者
石鹸箱《せつけんばこ》には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女《おほはらめ》が一人歩いてゐた
――彼は独身者《どくしんもの》であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆき[#「よそゆき」に傍点]を普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた
今しも彼が湯屋から出て来る
薄日の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた
春宵感懐
雨が、あがつて、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵《よひ》。
なまあつたかい、風が吹く。
なんだか、深い、溜息が、
なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴《つか》めない。
誰にも、それは、語れない。
誰にも、それは、語れない
ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
けれども、それは、示《あ》かせない……
かくて、人間、ひとりびとり、
こころで感じて、顔見合せれば
につこり笑ふといふほどの
ことして、一生、過ぎるんですねえ
雨が、あがつて、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
なまあつたかい、風が吹く。
曇天
ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶《かな》はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処《をくが》に 舞ひ入る 如く。
かかる 朝《あした》を 少年の 日も、
屡々《しばしば》 見たりと 僕は 憶《おも》ふ。
かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍《いらか》の 上に。
かの時 この時 時は 隔つれ、
此処《ここ》と 彼処《かしこ》と 所は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝《かは》らぬ かの 黒旗よ。
蜻蛉に寄す
あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉《とんぼ》が 飛んでゐる
淡《あは》い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる
遠くに工場の 煙突が
夕陽にかすんで みえてゐる
大きな溜息 一つついて
僕は蹲《しやが》んで 石を拾ふ
その石くれの 冷たさが
漸く手中《しゆちゆう》で ぬくもると
僕は放《ほか》して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く
抜かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎《な》えてゆく
遠くに工場の 煙突は
夕陽に霞《かす》んで みえてゐる
−−−−−−−−−−−−−
永訣の秋
ゆきてかへらぬ
――京都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々|揺《ゆす》つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日|赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車《うばぐるま》、いつも街上に停《とま》つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団《ふとん》ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。
一つのメルヘン
秋の夜は、はるかの彼方《かなた》に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石《けいせき》か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
幻影
私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗《しや》の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。
ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。
手真似につれては、唇《くち》も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう――
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。
しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。
あばずれ女の亭主が歌つた
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。
おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつていることのやう。
そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。
それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、
いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。
そしてあとでは得態《えたい》の知れない
悔の気持に浸るのだ。
あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまふ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
言葉なき歌
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処《ここ》で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼《あを》く
葱《ねぎ》の根のやうに仄《ほの》かに
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