淡《あは》い
決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣《みや》つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい
それにしてもあれはとほいい彼方《かなた》で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない
さうすればそのうち喘《あへ》ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜《あかね》の空にたなびいてゐた
月夜の浜辺
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛《はふ》れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
月の光 その一
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
お庭の隅の草叢《くさむら》に
隠れてゐるのは死んだ児だ
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる
ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
月の光 その二
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる
ほんに今夜は春の宵《よひ》
なまあつたかい靄《もや》もある
月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる
ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない
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