の単なる多血質な人間を嗤《わら》ふに値ひする或る心の力――十分勇気を持つてゐて而も馬鹿者が軟弱だと見誤る所のもの、かのレアリテがあるのでないと、誰が証言し得よう?
がそんなことなど棄て置いて、とも角も、私は口惜しかつた!
私はその年の三月に、女と二人で、K市から上京したのだつた。知人といつては、私から女を取つたその男Iと、その男を私に紹介したTとだけであつた。だのにTは女が私の所を去る一ヶ月前に死んだので私にはもはや知人といふものは東京になくなつてゐたのである。一寸知つた程度の人が、五人ゐはしたが、その中の四人はIの尊敬者であり、一人は、朴直な粧《よそほ》ひをした通人で、愚直な私など相手にして呉れるべくもなかつた。彼は単なる冷酷漢で、それゆゑ却て平和の中ではやさしい人とみえる、或時は自分をディアボリストかなと思つたりして満足してみる、かのお仁《ひと》好しと天才との中間にある、得態[#「態」に「ママ」の注記]の知れない輩なのである。彼も文学青年なのだが、彼はまだ別に何にも書いてゐない。なのに、聞けば大家《たいか》巡りは相当やるさうである。そして各所で成績を挙げるらしいのだが、無理もない、私も二三度ダマされた。
横道に少し外れたが、
私は大東京の真中で、一人にされた! そしてこのことは附加へなければならないが、私の両親も兄弟も、私が別れた女と同棲してゐたことは知らないのであつた。又、私はその三月、東京で高等学校を受験して、ハネられてゐたのであつた。
女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。
だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。
いよいよ私は、「口惜《くや》しき人」の生活記録にかゝる。
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街上
富永の追悼会。
下宿と其周囲
道具屋、薬屋、南山堂、神田書店、夜の読書、詩作、篠田と其婆の一件。帰省。諸井。父の死。佐藤訪問。河上。小林宅炊事。大岡、アベ六郎、スルヤの連中、河上、村井、小林。行ヱ不明。
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底本:「日本の名随筆 別巻65 家出」作品社
1996(平成8)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「中原中也全集 第三巻」角川書店
1967(昭和42)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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