りますから、日本画用の胡粉、朱、白緑、白群青、群青、黄土、岱赫、金銀泥等を用うるのが最もいい様です。
膠 それ等の絵具は日本絵を描く時と、同じ方法で膠を以て絵具をとき、墨を以て線描きを施した上を塗って行くのです。西洋画風に描くには線を省き、調子のみを以て描いて行く。
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ガラス絵製作の順序
先ず、一枚の風景画を作ろうとします。第一に必要なるは、早速モティフとして適当な場所を探しに出なくてはなりません。これは鉛筆とクレイオンとスケッチ帖位いあればいいでしょう。
都合のいいモティフに出会ったとすると、それを充分正確に写生することです。そしてそれへ、覚えの色だけを塗って置くのです。色彩の記憶さえ確かなら、鉛筆の素描だけでもいいのですが成る可く色彩も施して置く方が、絵の調子を破らず、楽くに仕上げる事が出来ます。手古摺る事が少ないのです。
スケッチした素描淡彩を、家へ持ち帰えって、その上へ同じ大きさのガラスをのせ、決して位置がくるわない様にして、絵具を前記の油で溶解し乍ら、少しずつ塗って行くのであります。或は粉末絵具を以って。
ガラスは勿論、アルコールで充分美しく、掃除して置く必要があります。
ここで普通の絵とは違って、特別な考えが必要である事は、絵の結果、即ち答えが、裏手へ現われるのですから、普通の絵の如く、幾度も色を重ねて、仕上げて行く事が出来ない事です。一度塗った色彩や線は、最後の一筆であり結果の色であります。それで、描くべき順序が、普通の絵とは全く反対になるわけです。例えば空全体を塗って置いて、あとから月を描こうとしても、それは駄目です。空の色に蔽われて了って、月は画面へ決して現われないでしょう、即ち月は、何よりも真先きへ描いて置く必要があります。そして、あとから空全体を塗りつぶさなくてはならないのです。若しも雲があれば、雲も月と共に、先きへ描いて置かなくてはならないのです。
林檎を描くとします。その光ったハイライトの部分は、先きに描いて置くのです。次に暗い影を描くのです。最後に赤い全体の球を塗りつぶすのであります。
滑稽な事には、自分の署名などは、左文字で一番最初に、記して置かねばならない事です。
それをうっかりして、先きへ描いて置くべきものを忘れて了って、あとで弱る事があります。例えば裸体人物の時に、臍を忘れて、腹全体を塗りつぶして、あとから表を返して見て、驚く事があります。こんな時には、臍の部分だけ、あとから絵具を、アルコールで拭い取らなければなりません、地塗りとか、空とかバックなどは、最後の仕事です。樹木などは、葉の一枚一枚の点々は先きに、葉の全体の固まりは、後から塗ります。道路の点景人物は先きに、石ころも先きに道全体の色は、最後に塗りつぶさねばなりません。
時々裏返えして見て、仕上って行く絵の調子を眺め、次の仕事を考える必要もあります。あまり度々裏返えして見てばかり居ると、勢や気合いが抜けて絵が大変いじけて了うものであります。ある程度までは、度胸や胆力が必要です。
処で仕上った絵は、実物の風景とは、左右が反対になっています。丁度エッチングの場合と同じ事であります。
絵具の塗り方は、あまり厚くぬらない方がいいのです。なるべく淡く、サラサラとつけて行く方がよろしい。ガラスの透明を利用してタッチを表わす工夫をするとよいのです。或は淡い、絵具を二三回も重ねて、重く濃厚な部分や、軽く半透明な場所なども作るのです。すると、ガラス特有の味が出るものです。
顔料に就いては、油絵具を用いた場合も、粉絵具を用いた場合も、その描法に変りはありません。その効果に於て、油絵具の方は少し濃厚であります。粉末絵具は、自然粉っぽい気がして、サラサラとした感じがします。極く小品には油絵具がよく、少し大ものには粉末絵具が適している様であります。絵具ののびもよろしい。古いガラス絵などは、主として粉末絵具が使ってある様に思えます。
一枚のガラス面が、殆んど絵具で塗りつぶされた時は、絵が仕上った時であります。
出来上った絵は、よく乾かす事が必要です。乾くとその絵具のついてある面へ、その絵の調子によって、黒い紙か或は藍、或は鼠色の紙をガラスと同じ大きさに切って当てます。その紙の地色によって、絵の調子を、強めたり弱めたりする事が出来ます。
色紙を当てると、次に馬糞紙の様な厚紙を、これもガラスと同じ大きさに切ってすて、周囲を細い色紙か何かで、糊付けにして了います。こうすると、ガラスで手を傷けたりすることもなく少し位い取り落しても、こわれる事はありません。斯うして一枚の絵の仕上げを終るのであります。
画面の大きさの事
画面の大きさを考える事は、重要な事であります。油絵は八号位いから百号、二百号、三百号とどれ位いでも大きく描く事も出来、又その材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです。処で水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります。水彩と云う材料は、そんな大ものを引受ける力がありません。何んとしても小品の味であります。
ガラス絵は特に、大ものはいけない様であります。第一馬鹿に大きいガラスと云うものが、人に何時破れるかも知れぬと云う不安を与えていけません。
それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります。筆触もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
そんなわけで、大体に於てガラス絵の大作と云うものは、昔しから尠ない様です。日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので、怠屈な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります。Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心もちのする色の輝きです。宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭の様に、ごろごろ道端に転がって居れば、馬の糞と大して変りは無いでしょう。
私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二三寸四方から五寸位い、と思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろ左様に小さい作品である上に、殆んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描も必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません。どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな玩具となって了う事も怖れねばならないのであります。
要するにガラス絵と云っても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
食物で云えばガラス絵などは、間食の如きものでしょう。間食で生命を繋ぐ事は六つかしい。米で常に腹を養って置かなくてはなりません。
その上ガラス絵は大体に於て趣味的な仕事ですから、あまりに変なガラス絵のみに熱中し、油絵を忘れて製作していると多少鼻もちならぬ趣味臭さを発散して不愉快ですから、これも亦間食として作るべきでしょう。あり過ぎる趣味は全く臭くていけません。
額縁の事
ガラス絵とその額縁との関係は、中々重大であります。何んと云っても、二三寸の小品の事ですから、これに厭な額縁がついていれば、その小さな画面は飛ばされて了います。充分中の光彩を添えるだけのものでなくてはならないでしょう。
支那のものでは、よく紫檀の縁がついています。上品でいいものです。古いビードロ絵にはそれは西洋風のいい味を持つ古めかしい縁がついています。
私は額縁屋へ喧かましく云って造らせたりしますが、どうも云う事を聞かないので癪だから致方なく、私は場末の古道具屋をあさって、昔の舶来縁の古いのを探しまわるのです。古額は案外美しいものがあります。昔し渡った鏡のフチなど今も散髪屋などによく残っていますが、中々いいものがあるのです。こんなものは古道具屋では、あまり価値が無いものですから、気の毒な様なねだんで売ってくれます。こんなのを常に買い込んで置いて、時に応じてその画面の寸法に合わせて、額縁屋で切らせ、組み合させるのです。すると絵にピッタリと合った味が、成立する事があります。
先ず以上その大略の事は申したつもりであります。
大和魂の衰弱
私自身の経験から云うと、私達ちの学生時代は、自分等の作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうと云う事をあまり好まないと云う気風が多かった様に記憶する。殊に展覧会前などに於て持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌な奴めと考えられた位いのものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概判っているもので、それが判らない位いの鈍感ならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そして尚お、先生達ちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
学校や研究所は自分達ちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞め合い、悪口をいい合い、或は自分を批判し尽して以て満足していたものであった。
初めて文展が出来た時、私達ちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者共は、ひそかにお互の眼を掠めて作品を持って先生達ちの内見を乞いに伺うものが現れた様だった。左様な所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做されていて、敢えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷につつみ、そっと先生の門を敲くと云った具合であったらしい。又学生の分在であり乍ら文展に絵を運ぶと云う事は少年が女郎買いすると同じ程度に於て人目を憚ったものである。或は、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったとも云えるが、文展出品は内密を主んじる風があった。
私などは、殊の外恥かしがり屋の故を以てか、浅草や千束町へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そして吾々はそれによってある気位いを自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声|粛《シュク》々時代と云えば云える。東洋的大和魂がまだ吾々の心の片隅に下宿していたと云っていいかも知れない。
その私達ちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々とは何んですかと訊ねられる事に立ち到った。今に大和魂と云った位いでは日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
勿論、画学生は数から云って、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私達ちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目な研究者があった訳であろう。然し、嫌な奴も存在したであろう。
目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。田舎の図画の教師達や図案家、名家の令嬢、妻君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人達の余技として、絵画が普及し、隆盛になりつつある様である。
それは真とに日本文化の為めに結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上に於ては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何ともする事が出来ないのである。そしてただ、一寸、入選さえ毎年つづけていれば、それで校長と親族へ申訳が立つと云う位いの、安価な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
お引立てを蒙る、御愛顧を願う、と云う文句は米屋か仕立屋の広告文で最早や無いのである。芸術家は常に各展覧会に於て特別のお引立てと御愛顧を蒙らなければならないが為めに、年末年始、暑中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立っても居ても居られないと云う場合に立ち到っているかの如くである。
従って
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