神様になろうとする近代の傾向である。近頃、非常に多い画人の中にはこの種の日曜画家は案外多いものだろうと私は思う。
 悲しいことには絵画の様式は複雑であり、たった一日で完成すべき性質を欠いているがためにここに、絵画の本質と日曜との間に悲劇が起こってくる。
 油絵という芸術が現代生活上の必要からおいおいと日曜のみの仕事になっていったら、会社員の俳句ともなり、娘さんの茶道、生花、長唄のおけいこともなり、普及はするが淋しい結果になりはしないかと思う。
 その代り相当の優秀な作家が、絵によって世の役に立つところの仕事、世の中に絵の描けない人達のためにつくすべき仕事に向かって流れて行くことは私は悪くないと思う。美しく近代的なショーウィンドを構成し、ペンキ看板はよりよくなり、女の衣服は新鮮であり新聞紙や雑誌は飾られ、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は工夫され、ポスターと新薬は面目を改めていくだろう。都会は美しさを増す。
 しかながら一軒のかしわ屋の看板を描くために五〇人の画家が押し寄せたとしたらどうだ。どうしていいかにも私も見当がつかない。
 だが、やきもきと何かと戦っているところの若いものはまだいいとして、本当に芸術に噛りつきながらもつぶしの利かない、しかも世の中の焦点から消えて行く日本の老大家達の末もあまり明るいものではない、かと思われる。
[#地から1字上げ](「セレクト」昭和五年三月〜四月)

   秋の雑感

 秋の大展覧会というものは、例えば二科にしても、先ず五十銭の入場料を支払えば、日本全体の今年度に於ける新芸術の進歩、方向その他一切の技術から遠くフランス画壇の意向から、その尖端の新柄の土産に至るまで、悉くを眺めつくす事が出来る甚だ便利な封切りものの常設館でもある。
 ここで秋の封切りを一度観賞しておくと、若い男女は日本の新芸術からフランスの風向きに至るまでを一年間は有効に話の種として交際する事が出来る。
 もし私が若い男だったら、やはり断髪の近代女性と共にあの会場を散歩して見るであろう。そしてピカソ、ドラン、シュール・レアリズムは、と云った事を口走り乍ら、その無数の大作を私達の背景として漫歩するだろう。そしてその中の一枚を彼女へのお土産として、彼女のピアノの上の壁の為めに買ってやるには少々高価であり過ぎる。そこで絵はがきを買って待たせておいた自動車へ埋まり、銀座へ出て、ハンドバックを買ってやるかも知れない。
 その訳でかどうか知らないが、あの幾百枚の油絵の中で、何点が見知らぬ人に買われて行くかを注意して見ると、全く驚くべき少数のものが引取られるのみである。東京はまだいい、大阪での開催中において、毎年一枚かせいぜい二枚か売れて行くだけであると云うと何か嘘のような、税務署への申告のような話だが本当なのだ。それも調べて見ると何かの縁につながれたる人情を発見すると云う有様である。
 だが展覧会は売る為めの仕事ではないと云えば又それまでの事ではあるが、画家の一年中の代表作が売れて行く事は悪い現象でもあるまい。
 だが近代の展覧会はいよいよ形が壮大となり、秋季大興行の一つとなって来つつある。そして近代の画家は一年中、食物と戦いつつ若き男女の漫歩に適するハイカラなる背景を無給で製造している訳でもある。何千人の人達が散歩して了い画界の潮流を示して了うと直ちに引込めてあとは画室の納屋へ永久に立てかけておく。
 せめてそれでは、入場者が全国野球大会の一日分位いでもあって、その五十銭の入場料の配当にでも出品作家が預かればまず生活の一部分は救われるだろうが、現在の如き程度であっては、展覧会は来年度の開催が保証されれば幸福と考えねばならない次第だそうである。
 そこで現代の若き作家は商品見本を秋に示し、一年間は潜行して画商と、番頭と、作者を兼業しつつ多忙を極め、なるべく嫌らしく立廻って漸く生存する事が出来るだろう。
 * * * *
 だが、画家の絵を作りたがる心根は又いじらしいものである。如何にいじめられ、望みを奪われ、金が無くとも、ただ絵が描き度いという猛烈な本能に引ずられて、我々は仕事をしているために、決して画家は如何に条件が悪くとも、怠業をしたり示威的な行動を起したりはしない。何んだって構わない。自分の一年中の仕事の封が切って見せたくて堪らないのだ。たれかの背景となりたくて堪らないのである。だから画家が不出品同盟とか脱退とかいって怒るのは、必ず鑑査に関する時か、自己の名誉、権力についての時ばかりだといっていい。それが芸術家の性慾だ。
 全く画家の製作慾も、性慾そのものよりも強い。性慾は制限すれば健康を増すが、画家から筆を奪うと彼は病気になる。
 さて、展覧会では絵画は背景であり、見本市場であり、競争場であり常設館であるとすれば、勢い素晴らしき存在と人気が若き画家の常識ともなり勝ちだ。
 従って絵画は、その画面を近頃著るしく拡大しつつあり、何か不思議な世界を描いて近所の絵画をへこまそうと企て、あるいは日本以上に展覧会と画家で充満せるパリでは、藤田氏の奇妙な頭が考案されたりするのも無理では決してないだろう。
 日本の近代の絵にしてもがどうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり、尚いよいよ発達するはずだと思う。
 かくして秋の大展覧会は野球場であり常設館となって、素晴らしい人気を博し得れば幸いである。私も亦なるべく大勢の婦人達を誘って近代的漫歩のために何回も訪問する事に努力したい。
 然し乍ら若くて野心ある画家は、空中美人大観兵式でも、らくらくと描き上げるだけの夢と勇気を持つが、もう多少の老年となれば左様な事も億劫にして莫迦らしく、若い男女の為めの背景となるところの興味も失って了う。つい洗練された自分の芸術境の三昧に入り度がり、籠居して宝玉の製造に没頭する。
 情けない事には、巴里の如くその玉を引取るべき画商がなく、展覧会は完全に登竜門の大競技場となり漫歩の背景となりつつあるが為めにこの常設館のイルミネーションの中で完成されたる滋味ある宝玉も同居するのだから、甚だそれはねぼけた存在と見え勝ちである。玉から云えば他の作品はポスターでありポスターから云えば玉はねぼけた存在であると云う。又そう云う処に若い心が発散するのである。然し若き尖端は永久に尖端ではあり得ない。やがて今の尖端人は又玉を製造する日が来る。そして次の尖端の邪魔をする訳である。
 私は芸術家が宝玉と化けた時、これを何か適当な陳列棚へ集めて、尖端の大競争場裡から救い上げて見度いと思う。でないと、全く球場に埋まる老いたる玉が気の毒であり、芸術の完成を萎びさせていけないと思う。尖端と元気のみが芸術だとは云えないから。

   かげひなた漫談

 東洋画には陰影がない。強いて凹みを作らねばならぬ時には淡墨をもって隈というものをつける。これは単に凹んだ場所をやや暗くするだけのものであって、その隈どりの方向によってこの世の太陽が今どちらに存在するかといったことは一切わからない。この現実の太陽光線とは一向無関係であるところのたんなる凹みであるに過ぎない。
 ところが西洋画における陰影は必ず太陽のある位置がわかるところのこの世の影である。もちろん西洋でもうんと古代の初期絵画になると一種の隈で現実世界の光線とは無関係になっていることがあるが、相当絵画が進歩してからのものは非常にいよいよ太陽光線によって現れたところのこの世界のあらゆる光線の強弱階段を描いている。印象派などは極端に太陽光線ばかりを描いたようだが、ともかく影とひなたは油絵の母体であり相貌といっていい。だから日本画の技術のみを習得した画家には絶対に油絵は早速試みることは出来ないが、洋画家はちょっと道楽に日本画の墨画を試みてもまずいながらも成功する例が沢山ある。それは自分達人種の伝統にからみついているところのお里へちょっと帰りさえすれば出来る仕事であるのだ。西洋人は素人でも子供でもが何か絵を描こうとする時必ず影とひなたから描いて行く、そして絵の心得なきものでも容易に遠近と立体とを表現することが出来る。
 西洋の神様や幽霊の絵は足だけは宙に浮かび上がっているが、やはり太陽の光を浴びているところの確実なる地上の存在となって立っている。幽霊でさえもまず半透明体位のところで、やはり光線を浴びてまごついている。中世紀の宗教画やバーンジョーンズの神様の絵など見ると神様達はちょうど靴か下駄の如く何か変な形のものを足へ履いて、そこから焔が立ち昇っていて、この世の太陽光線によって光と反射と影を伴うて立っている。だから私はややもすると神様とは信じられないで宝塚の少女歌劇を見ている心が起きてくる場合がある。フットライトに照し出された、芝居の神様を思い浮かべることがある。かの壷坂霊験記を見ると、観音様がなんといっても人間のことだから、完全に日本画の如く線と、平面と、半透明体とになり切れないものだから、やむなくきらきらする衣裳を電燈に輝かせつつ光と影を持ったまま岩と雲の間に立ち現れ、われこそは観音也とのたまう。もし役者が完全に透明となる薬でもあれば、彼らは直ちに服用して線となり透明体と化してしまうであろう。
 で私などはどうも陰影ある竜とか観音、神様などをば習慣的に好まなくなっている。ただあらましの線だけ与えてくれれば当方で勝手な観音や神様を呼んで、勝手にありがたがってみたりすることに慣れている。
 日本のエロチックな浮世絵の裸体とか足にしてもがもちろん影がないので、その線条の赴くところにしたがって観音は自然を空想しながらよろしく当てはめて行く。その点はまことに画家の仕事は楽で便利である。ほんの略画、素描、一部のアウトラインだけを示すと、日本人は勝手な色彩なり想像を篏め込んでくれる仕掛けとなっている。一本の指で万事を悟らせる一休禅師のコツもこれであろう。二、三本の柳の数条の線へ幽霊と文字で記してさえも、勝手に怖ろしがってくれる、悟りの早い気の利いた人種であり好ましい東洋精神である。
 もしこれを無風流で禅の心得なき西洋人に見せたら、どうも本当に合点が行かないので一向何の顔もしないかも知れない。地図ですかと訊かれては、ノンノン、幽霊ですよ、それドロドロなどいって見てもなんとも感じないので阿呆らしくなって仕舞うだろう。ドロドロといえば直ちに怖ろしがらねばならぬという礼儀を知らないのだから困るのだ。
 でもこの東洋の世界をば科学文明は仙人と道釈人物、幽霊、鶴亀、竜の類を追い出し、あるいは動物園へ収容してしまった。そして一本の指くらいでは何も悟ってはくれない。はなはだ現実的で科学的で理論的で、批判的構成的、立体的にして陰あるところ必ず太陽のある世界へとうとう暴露してしまった。
 そしてこの世は、少女歌劇の神様が征服しつつあるともいえる。近頃のシュールレアリズムの類にしてもが、あのキリコなどの作画を見ても、室内に馬がいたり、大戦争が始まっていたりする。実に超現実とは見えるけれどもしかし実に正方形の室内が確実に存在し、まさに大戦争が立体的な箱の中にさもほんものらしく始まっている。シュールであるがあくまで現実的である点に不思議な誘惑を私は感じる。
 日本人描くところのシュールは超の方は容易に出来るのだが、何しろ永い星霜を仙人と鶴と亀とを友としていた関係上、なかなかレアリズムとか写実とか、光線の階調の研究とかいう不粋な方面はどうもまだ板につかない関係もあるが、なかなかレアリズムの方がうまく行かないとみえて何かせんべいの如く平坦にしてややもすると大津絵とばけてしまうこともある。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和五年九月)

   暑中閑談

 この世に住んでいる以上は、ごく少々でも自分の世界に極楽を見出す必要はある。でないとあまりにも憐れだから。しかしこの世といってもパリの都もこの世だし、アメリカもロシアもこの世だが、われわれのこの世は日本現代である。この日本現代のこの世こそは極楽
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