単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動
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