以来、混雑の往来に立ちながら、あるいは風景において、空における一点の雲の去来を気にして、その雲が立ち去るまでは筆を動かす事が出来なくて待っていたりするものすらある。晴れたる風景画は晴れたる日の幾日かを要求し、雨の日の絵は同じ雨を毎日|註文《ちゅうもん》して見たりするが、それは画家のためのみの存在には非《あ》らず、勝手気ままに晴れて行く。
これでは旅をするにも宿屋の滞在にもいらぬ費用も必要であり、その上一枚の絵を失敗しては立つ瀬もなかろう。
印象派の持つ欠陥によってまた絵画は衰弱と退屈を現し初め、画家の本能は、性慾は、当然、動かずにはいないだろう。
即ち印象派以後の立体派、フォーヴの一群、その他シュール・レアリズムのそれらに至るまで、近代の各様式による絵画の技法は、直接の自然写生から再び絵画の本来の性質である処の画室制作にまで立ち戻ろうとしている。あるいは画室制作と自然写生との混合によって制作する態度を続けている画家もある。
即ち現代の絵画は、全く自然を元の如く画家の背後へ廻してしまいつつある。またなお自然を前にしながら背をむけているもの、及び、なお自然そのものの前に忠実に立てるものの三種類の画家が今日共存していると思う。
要するに現代人の想像力を極端にまで表現しようとするもの、形と色調と力を自然から引出しつつ自然の形に変化を極端に与えようとするもの、ただ自然そのものをそのままの形に、といっているものの三種である。
だがしかし、如何に自然を背にしてもまた自然を前にしても、要するに人は結局地球の上に立っているに過ぎない事において変りはない。所詮《しょせん》人間は地球を脱出する事が出来ない如く人の心と自然との形のデリケートなる連関によってあらゆる傾向の芸術は生れて行くのではないか。
自然の前でも後ろでもいい、要は常に鋭き感性とその貪慾《どんよく》を以て、画家は、素晴らしい仕事をさえやってのければそれが万事である。
昔の日本画家の例えば光琳《こうりん》宗達《そうたつ》などのあの、空想的な素晴らしい絵画の背後に、彼の自然からの忠実な、綿密な写生|帖《ちょう》がどれだけ多く存在したか、浮世絵画家の版下《はんした》絵にどれだけの紙が貼《は》り重ねられて一本の線、一人の顔が描き改められているかを知る必要がある。モデルを見ずに描いたというミケランジェロはどれだけ多くの死体を研究したか、大雅堂《たいがどう》はどれだけ多くの山水を巡礼して歩いたかを知らなくてはならぬ。
工房でのみ仕事する芸術家は常に驚くべき写実をその押入れの中に隠しているのだ。押入れの空《から》っぽの空想的作家こそ自ら死の道を行くものである。それはいつの時代にあっても永久に変らない一事である。
自然を前にする処の印象派風の描法は、ありのままの自然の一部を切り取り、画面に構図を作り、見たままの色彩をそのままに現して行く。絵の具は重なって行き、重なった色彩と、調子と筆触はまた次の調子と色彩と筆触によって埋められて行く。そしてまた次の日に同じ事が繰り返えされて画面の全体のリズムが整い、自然とのよろしき連関を保って画家がよしと思う時、即ち絵画は仕上がるのである。そのよし[#「よし」に傍点]と思う時が大切な時である。リズムと調子に鈍感なるものはいつまで描いていてもよしと思う時がなく、終《つい》に描き過ぎて折角の絵をなぶり殺しとする事がある。自分の絵の仕上り時を発見する事が、その画家の力量だという言葉さえあった。
従って、自然の前で仕事をなす画家は、どんな味が最後に画面に盛られるか、如何なる答がこの運算によって現れるかを知らない場合が多い。最後の予想は最後の一筆まで判然しないといってもいい位だ。
黒田清輝という先生に私は教《おしえ》を受けた事があるが、自分はどんな絵が出来上るかを常に知らずに描いている。初めから、かかる絵を描きたいと思った事がないといわれた事を記憶する。印象派画家の仕事は皆多分にこの傾向を持っている。
後期印象派以後近代に至る諸傾向の画家の仕事は、いよいよ画家自身の心の動きに執着を持ち出してしまったと思う。そして彼らは自然の前に立ってはいるがそしてその手法としては同じく色彩と筆触と調子を画面に盛ってはいるが、しかし自然そのものとは全く異った有様を画面に創造しつつある如く見える。側《かたわ》らに立って見るものは、その画家が何を描きつつあるのかわからない事さえありがちである。それ位いの程度において画家は自然の上に自分の心を蔽《おお》い被《かぶ》せている。そして自然からは自分以上の何物かを汲《く》み出しつつ画面に自分の心と自然のリズムとのよき化合物を盛り上げている。私は後期印象派に属せしめられている処の、ゴーグ、セザンヌもその代表的の画人であるが、それ以後
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