要するに、作家の心の表現に役立たない処のあらゆる複雑な衣服を脱し、うるさき技法を煎《せん》じ詰め、あってもなくてもいいもののすべてを省略してしまう事は近代技法の特質であると思う。
換言すれば、絵画の上で、弟子や他人にまかせても差支えない場所の悉くを省略して、私自身の力と心を現すに必要なもののみを確実に掴《つか》む事である。
私はこの技法を完全にまで進めているものをマチスの絵画において感じる事が出来ると思う。
私はマチスが近代技法の特質を最もよく生かし得た画人であると思っている。
絵画の技法にあってその組立の複雑な衣を脱がして行くと、最後に何が残るかといえばそれは線である。
野蛮人の絵画、太古の絵画も線に主《おも》きを置いている。近代フランスの野蛮人もまた線へ立ち戻る事に努力したようである。日本画における没骨体《もっこつたい》という進歩した技法から逆に、いわゆる、白描の域へまで立ち帰ろうとしたのである。
油絵における技法の底の底へ沈んでいた処の線を引ずり出した近代野蛮人の功績は大したものであったと思う。
次に複雑な立体を頗る簡単な立体に節約し百の調子を十にまで縮め色彩を単純にし、然《しか》る後に人間の心を複雑な儀礼の底から救い出す事に成功したと言っていいだろう。
野蛮に帰り、初期に帰ろうとする心の動きにおいて、子供の絵や野蛮人の作品が近代画家を悦《よろこ》ばしめたのであった。
それから簡略を生命とする処の東洋画、あるいは一条の線の流れが世相の百態を表す処の錦絵がフランスにおいて近代絵画の大革命を起さしめる大なる原因の一つとなった、という事は当然であろう。
その他南洋土人の原始的作品や名もない処の画家の稚拙が賞玩《しょうがん》され、素人画が賞味され、技法の上に取り入れられたりした事も当然の事であろう。
いろいろの事によって近代の新らしい絵画の技法は、自由にされ、明るくなり、簡単にされ、省略されてしまったものである。
しかしながらそれらは、何世紀の歴史と生活の背景とを持つ処の西洋における出来事であった。我が日本は決してさような油絵具を持ってなされた壮大なる芸術を作った覚えもなければ、その進歩と、老舗《しにせ》と、その衰弱の悩みも経験した事は更にないのである。その技法の下敷となって苦しんだ覚えもないのである。それは単に西洋人だけの苦悶《くもん》に過ぎなかったのである。
8 新技法と日本人
我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々《ゆうゆう》自適しながら楽しんで来たものであった。勿論《もちろん》その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦《かわら》と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元《きよもと》、歌舞伎《かぶき》、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生《き》一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利《イタリア》の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽《おお》われてしまったのである。
さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕《こ》ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大《おおい》に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋|由一《ゆいち》、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田|清輝《せいき》氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、
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