単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。
それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それはきわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和四年六月)
挿絵の雑談
よほど以前の事だが、宇野浩二《うのこうじ》氏が鍋井《なべい》君を通じて自分の小説の挿絵《さしえ》を描いて見てくれないかという話があった。自分は挿絵を全く試みた事がなかったが挿絵というものには相当の興味を持っていたし、小説家と自分とが知り合って共同出来る場合には殊《こと》
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