払い去った事は近代フランス印象派画家、マネ、モネ、ピサロ等の一団の恩恵であらねばならぬ。
自然の前で仕事する方法は、私の画道の修業時代もまたこの勢力、この方法の最盛期でもあったために、私は最後まで自然の前に立つ技法を学んだ。従って自然なしでは柱なき家でありテレスコープなき潜航艇でもある。
さて自然の前でする技法の特質は、想像にのみよるものが陥りやすい処のマンネリズムから飛び離れ得る事であり、また、画家が自然から直接パレットの上に絵具を調合すると、彼は不知の間に一つの不知の調子と色彩をカンヴァスの上へ現し得る事である。
彼と、筆と、絵具と、カンヴァスの間に、も一つ、何か彼の知らない一つの不思議な力が常に働いている事である。その力が絵を彼と共に完成して行き、彼にもわからぬ力を画面に与える。
彼が自然を背にして勝手に色彩を弄《もてあそ》ぶ時この不思議な力は働かない。
そんな訳で自然の前でした仕事を、もし自宅で空だけの一部を記憶によって描き直そうとする時、如何にパレットの上で絵具を交ぜ合せて見ても、再び自然の前で一秒間に作ったはずのその色と調子を出す事が出来ないのである。それを無理から直して行くうちに空は妙に沈んで色彩は死んで行く。全く直接の写実というものが絵画を生かし力づけて行く事は驚くべきものがある。
しかしながら、写実は万事ではない。これによって最も新鮮な世界はもたらされたが、この方法は全世界に行き渡ってしまった今日、さて、その次にはこの方法が大体、一つの反動によって起った仕事であるがために、要するにその欠陥も発見されて来た。それはあまりに自然の前に立ち、その命令にのみよって一筆を動《うごか》す事の習慣から、見ているものだけは描き得るが、実物を離れては画家は何一つとして描き得ない。自然を離れては画家は頭へ形と色と調子の記憶力を完全に失ってしまった事である。それと共に、心の働きを極端に自然物の陰へ追い込んでしまったものである。従ってここに心の動きの制限された処の、ただ形と光線と色彩との何の奇もなき風景の切り取り画と人物のスケッチ類の多くが、再び揃《そろ》えの衣裳《いしょう》によってこの世に並び出したものである。
元来如何なる芸術品であっても制作というものは、昔から人を避けて一室に籠居《ろうきょ》し、専念その仕事に没頭する傾向あるべきものだが、近代の外光派
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